07/12/19

●『モレルの発明』(アドルフォ・ビオイ=カサーレス)を読みながら、青木淳悟の「四十日と四十夜のメルヘン」のことを思い出していた。カサーレス青木淳悟と違って、SF的ともいえる、割合はっきりとして分かりやすい「お話」の輪郭があるのだけど、それを記述する一人称の話者の信用の出来なさの感触と、そのような信用出来ない語り手を通してしかあらわれてこないような世界そのもの(空間と時間)の不安定さの感触が、似てるように思う。他者(システムの外)が存在していなくて、しかし強い「他者への指向性」だけが、その閉じられたシステムのなかで空転しつつコダマしているような感じ。空転するからこそ、ますますそのコダマは増幅され、複雑化される。というか、重要なのは、そんな「閉じられたシステム」がそもそも成立しているのかどうかさえもが、きわめてあやしい、という感触だろうと思う。(実際にあるのは、ただ、いくつかの断片化された文章のまとまりのみで、つまりいくつもの小さなシステムの寄せ集めにすぎず、それを制御する統覚あるシステムなどないのではないか。そこに「一つの」システムを読み取るのは、読み取る側の恣意と読み落としによる効果に過ぎないのではないか。)そもそもそれがかつて作動していたのかさえあやしい、既にいくつもの断片へと半ば解けてしまっている、あるシステムのコダマ(残像)のなかで、(これもまた、そもそもそれが存在しているのかさえあやしい)別のシステム(他者)への「指向性(あるいは固着性)」のコダマが鳴り響いている、という感じ。(ただ、その指向性と固着があるからこそ、それが幻だとしても、「一つのシステム(主体)」という仮象が生じる。)そこでは、閉ざされて外がない事と、解体寸前にまで開いてしまっていることとが、別のことではなくなっている。