07/12/22

●『哀しみのトリスターナ』(ブニュエル)をビデオで。ブニュエルの映画で重要なことは、時間が正確なリズムを刻んで進行するということなのではないだろうか。これは、説話上の時間ということではなく、あくまでも映画としての時間という意味で(説話上の時間が行ったり来たりすることがあったとしても、それより、映写機のなかでフィルムが送り出される速度の一定さ、一方向性の方を強く感じる、というような意味で)。だから、説話の都合によっても、あるいは描写の都合によっても、アクションの都合によっても、時間が乱されることはなく(時空の伸縮や濃淡は生まれず)、つまり、説話や描写やアクションよりも、時間の進行の正確さが優先される。(様々な事柄が、ウソのようにあっけなく進行する。)ブニュエルの映画の残酷さとは、時間が決して「人間的」なものにならず、あくまで淡々と進行してしまうことにあるのではないだろうか。すべてがゼンマイ仕掛けのように進行し、例えばヒッチコックのように、時間や空間が心理化することは決してなくて、時間はあくまで人間たちの外側にあり、自身の秩序を厳守しつつ外側から絶対的なものとして人間に作用する。(ゴダールがビデオでするように、編集台の上で、映像を一時停止させたり、速度をかえたり、巻き戻させたりするような時間の操作は、ブニュエルにとっては世界の冒涜のようなものなのではないか。例えば、スローモーションははじめからそれを狙って高速度撮影されるべきもので、編集によってフィルムの送り出しの速度や方向をかえることは、世界の法則をねじ曲げることだ、というくらいの感じ。)
この感じは、プログラムピクチャーを量産していたメキシコ時代も、巨匠となったフランス時代も、基本的にはかわらないように思われる。そしてそれはおそらく、初期のシュールレアリスム時代に既に刻みこまれていたものではないかと感じる。
●リンチ論は、冷静になって、改めて通して読んでみると、思ったより暑苦しくもなく、混乱もしていなかった。