07/12/27

●去年も同じようなことを書いた憶えがあるのだが、「M-1」というのは、つくづく良くないなあと思う。普段、お笑いについて別に大して興味がない人でも、ついついM-1については何か言いたくなって、言ってしまう。別に、人は何でも好き勝手に発言してよいのだし、誰が何を言ってもいっこうにかまわないのだが、そこでは言っているのではなく、たんに言わされているのだということが自覚されない。(何かを「言わされる」ということは、何かを言いたいのに「言えない」のと同じくらいの抑圧だと思う。)
コンテストとかオーデションそのもの(あるいはメイキングとか)をショーとしてみせて、プロモーションとするという手法は90年代くらいからテレビではすごく洗練されてきて、それはそれで「売り方」としてはアリだと思うのだが(というか、そもそもコンテストというのはプロモーションの手法の一つなのだが)、それがあまりに洗練され過ぎると、観客はその手法によって無理矢理盛り上がらされているのか、その内容に面白いところがあるから盛り上がっているのかが、分らなくなる。観客は無理矢理、審査員(批評家)であるかのような位置へとつかされるか、あるいは、無理矢理にコンテストを受ける芸人の側に感情移入させられる。あるいは、同時に両方に。それはつまり、M-1という権威の一部を自身が担っているかのような前提を知らず知らず受け入れさせられていることになる。でも、人が何かを「面白い」と感じるのは、もっとあやふやな場所でであって、決してそのような場所においてではないと思う。そんな評価の枠組みが最初にある時点で、既に「面白くない」のだ。(「そんなの関係ねえ」に、新鮮な驚きを感じることと、それを「今年の世相を反映するなにごとか」として位置づけることとは、まったく別のことだ。付け加えれば、「位置づける」ことと「分析すること」とも、別のことだ。分析は往々にして位置づけを不能にする。)
コンテストに強いというのは、ひとつの立派な適応能力であり、それ自体否定されるべきものではないが(だからこれは、勝ち残った芸人がダメだということではまったくない、「芸人」は、どんなやり方にしろ、自分が仕事をしつづけることが出来る状況をつくればよいのだ)、その場があまりに多くのものを切り捨ることで成り立っていることを、観る人がついつい忘れてしまうことが問題なのだと思う。(それを「忘れさせる力がある」からこそ、プロモーションとしての効果が大きいのだろうけど。)
例えば、人はついつい、今年のベストテンだとかを考えてしまう。あるいは、美術の「現在」、小説の「現在」、映画の「現在」などという、ありもしない抽象的枠組みを措定して、そこから遡行して何かを捉えようとしてしまったりする。(例えば、六本木クロッシングのような展覧会を、肯定するにせよ、否定するにせよ、それを美術の「現在」の何らかの反映としてみようとしたりする。それは、よかったり悪かったりする、いくつもある展覧会のうちの「一つ」に過ぎないのに。付け加えれば、ぼくはそれを観てません。)それはM-1と同様の「枠組み」(既に確固として「ある」とされている、本当はきわめて脆弱な枠組み)というものの偽の強さによる罠なのだと思う。人は、枠組みを与えられると、安心して「語り」はじめる、というか、「語らされてしまう」。でも、そんなところを掘っても何も出てこないと思う。それはあくまでプロモーションとして、あるいは、社交的な空間においてのみ、一定の意味をもつ。(社交-政治的空間が、具体的に多くのものを動かすことは、勿論、無視出来ないが。)人は、現代について語ることで、人と「現代」を共有していることを確認して安心したり(自分の「現代」のズレを修正しようとしたり)、あるいは、他人の言う現代よりも、自分の現代の方がより「現代」であることを主張して、自分の優位を示そうとする。現代に対するアンチを掲げたとしても、結局は同じ土俵の上にいることになる。(権力というのはつまり、本来ことなるリズムであるはずものののシンクロを強いること、つまり、何らかの枠組みを強引に共有させようとするということなのだと思う。)それは、何かをつくること、何かを考えること、あるいは、人の言うことをちゃんと聞こうと(フロイトが患者の言う事を聞こうとしたように)すること、とは、ほとんど関係がないことだと思う。それは、何かをつくろうとし、考え、聞き取ろうとする時に必然的につきまとう寄る辺なさを、みえなくするために作動する。(我々を規定してしまっている「現代」というものが本当にあるとしたら、それとはまったく別の位相にあるはずだ。我々は誰でも常に現在に触れているのだが、現在の一端に触れているのであって、誰のものであるにせよ、その現在は決して何かを代表するものではないはずなのだ。)