●引用。メモ。鈴木國文『神経症ディスクールと「治癒」』から。
フロイトは『精神分析入門』で「神経症はまさしく一種の無知、すなわち知っているはずの心的過程を知らないでいることの結果」であると言い、それに続けて「(分析家は)自分の知り得たことを患者に教えて、患者を彼自身の無知から解放する」ことで治療ができるのかと問い、それに否と答えている。そしてさらに「「知る」といってもそれはいつも同じことではない」、「「無知」といっても一種類ではない」と書く。(略)
主体は通常、「自分は何を欲望しているか」をよく知っていることになっている。しかし実際には、主体はこの点に関して、いつも何らかの誤解をし、無知な部分を持っている。ラカンのシェーマLが言わんとしているのは、まさにそのことである。神経症はこの誤解・無知に関わる現象である。しかしフロイトは、この無知を啓くのが神経症の治療、精神分析であるとは決して考えない。精神分析は決して教育とか学習の過程と同じようには進まないのである。
アメリカで仏文学を講ずるイスラエル出身のラカン精神分析フェルマンは、「分析的学習過程は線状的前進を通してではなく、突破、飛躍、非連続、退行、遅延行動を通して進んでゆくのであり、知的完成に達し得るという伝統的な教育学の信仰と、無知から知へと進んでゆく一直線道程という進歩主義的学習観に疑義を唱えるものだ」と述べている。そして彼女は、この無知にむしろある積極的な意味をもたせ、「無知は不在という受動的状態、単なる知識の欠如ではない。それは否定という積極的な力動性、知識を受け入れることに対する積極的拒否である」と言う。》
《普通の対話では、人は、自分が予想した言葉を相手が返してくれることを期待している。つまり人は、相手が「理解」してくれることを期待している。しかし精神分析においては、分析家は患者の「理解して欲しい」という要求に応えることはできない。これに応えていたら分析にはならないからである。分析家は、患者の言葉を理解しようという姿勢からきっぱりと離れることが必要となる。フィンクは「精神分析においては分析家と分析者は同じ言語を話していないということを十分に念頭に置かねばならない」と言う。そして彼は「分析場面で分析家は、例えば「解るよ」という言葉を避けなければならない、あるいは患者が「私が言いたいのは」という言葉を枕に語る時、すでに他のことが主体を動かしているということを知っていなくてはならない。[....]精神分析は分析者が言わんとしていることに関わるのではなく、そこで実際に言われている言葉の作用に関わるのである」と言っている。》
ラカンはその初期、精神分析を、その関係から想像的雑音を取り除き、患者を大文字の他者Aへの直面化へと導くものと考えていた。しかし(...)一九六〇年頃以降、一歩進めて、分析を、分析者の欲望の空隙を開くものと考えるようになる。
ラカンはその初期、「理解」に基盤を置く解釈について、「エゴからエゴへの解釈、あるいは同類から同類への解釈、[...]その基盤と機能が投影のそれに他ならない解釈」と呼び、そうした解釈は「たとえそれがどんな価値を持つにせよ慎むべき」だとしている。「スプーンで解釈を与えるような分析」は厳に慎むべきだと言うのである。そして彼は何を答えるかはあまり問題ではなく、彼の答える位置、大文字の他者の位置こそが問題となると書く。フロイト自身もその後期、「精神分析とは解釈の技法ではない」という内容の発言をしている。
しかし「知っていると想定された主体」の考察を経て、ラカンはしだいに、「知っていると想定される主体」の位置にある分析家から、この「知っていると想定される主体」を患者の「無意識」へと返すことを問題にし始める。最終的な主導権は患者の無意識の中にこそあることを強調するのである。ラカンはその後期、次のように書いている。「解釈は欲望の原因に関わっている。[...]ここで欲望の原因と言われているのは対象aである」。ここから、フィンクは「解釈は現実的なものを打つ、すなわち分析者が何を言葉にできないままに、何を避けつつそれをめぐって喋っていたかを示すのである」と説明している。》
●《「知っていると想定される主体」》を《「無意識」へと返す》というのはつまり、人は、自身の無意識の強度のみを支えに生きるしかないということだろう。