●薦められて、アクラム・カーン+シディ・ラルビ・シェルカウイ「ゼロ度」を観に、彩の国さいたま芸術劇場まで行った。ほとんど何の予備知識もなく、ふらっと出かけたのだけど、これがとても面白かった。ひっかかりがあるとすれば、ちょっと面白くし過ぎなんじゃないかということで、笑いあり、涙あり、ダンスあり(!)の、手に汗握るエンターテイメント、みたいに言えなくもないくらいに、単純な意味で面白い。とにかく二人のダンサーが素晴らしい。アクラム・カーンの、切れ味の鋭い、どちらかというと「剛」な感じの動き(どんだけ回るんだというくらい回転する)を、捉えどころ無く柔らかい動きのシディ・ラルビ・シェルカウイがや受け止める、という感じか。しかし、シンクロするところは完璧にシンクロする。(まず冒頭で、そのシンクロの完璧さに驚かされる。)ぼくは特にシェルカウイの動きに魅了された。あと驚いたのは、舞台上にアントニー・ゴームリーがダンサーを象ってつくったという二体の人形が置かれているのだけど、そのうち一体が普通に「立つ」ことだ。等身大の人体の形をしたものが、台座もなしに「立つ」には、かなり絶妙なバランスが必要なのだと思うけど、普通に立ったり倒れたりする(つまり、倒れた後でも、簡単に立つ)。これって、何気なく凄いことだ。この人形が、当たり前のように普通に(即物的に)立ったり、倒れたりすることは、この作品ではとても重要なことだろう。(つまり、ダンサーと美術家のコラボレーションが、本当の意味で成立している。)この人形一個とっても、この作品が細部にわたるまで完璧に作り込まれていることがわかる。(ダンスがこんなに面白いものならば、もっと頻繁に観たいと思うけど、パフォーマンス・アートはどうしてもチケットが高価なので、なかなかそうもいかない。)
冒頭、二人のダンサーが並んで、(アクラム・カーンが実際に体験したらしい)バングラデシュとインドの国境での出来事を完璧にシンクロした声と身振りで語りだす。(マッチョな警備員にパスポートを取られた恐怖。)二人のシンクロした手の動きは、横並びから向かい合うことで絡み合うような格好になり、それが徐々に、合気道の組み手みたいになってゆき、その動きがエスカレートして、舞台全体を使った『マトリックス』の武道対決みたいな感じにまで発展して行く。ここで二人のダンサーの動きは一部の隙もなく組み立てられているし、その動きキレも凄い。この冒頭の一連のシークエンスは圧巻で、何と言うのか、単純に「すげえすげえ」という感じで観ていてやたらと「面白」くて引き込まれてしまう。(最初にも書いたけど、ひっかかりがあるとすれば、こんなに何の抵抗もとまどいもなくすんなり「面白」くて良いのだろうか、という点だ。)その後も、倒れた人形を模倣するように、横たわって、ずっと額を舞台の床に密着させたままのような姿勢で、驚異的な柔軟さでもがくような動きをするシェルカウイは本当に素晴らしいと思うし、影を効果的に用いてまるで群舞のようにみせるシーンなど、照明との関係で立ち位置がミリ単位で決まってるんじゃないかと思うくらいに作り込まれているのに驚かされる。あと、この作品では、舞台の隅の方、壁とギリギリの場所で踊る場面が多いのだけど、(こんなことは基本なのかも知れないけど)壁に凄く近くて、回転するときの腕などがあとちょっとで壁にぶつかってしまいそうなギリギリの位置にいながらも、まるでそんなところに壁などないかのように、壁の存在を気にする素振りがほんの僅かも感じられない動きをするので、隅っこの空間を使いながらもすこしも狭っ苦しい感じがない。舞台の後ろの壁だと思っていたところがうっすらと透けて、演奏するミュージシャンがぼんやりと見えてくるという演出もカッコイイし、裸足でタップダンスというのも面白い。最後の方でシェルカウイによって歌われる歌がまた、とても美しい。とにかく、高い完成度と技術で実現された様々なアイデアがぎっしり詰まっていて、ダンスを見慣れていないぼくなどは、じっくり吟味するというよりも、それを追っかけるのがやっとという感じなのだった。
語られるエピソードは(細かいところまでは理解出来てないけど)、身分の証明であるパスポートが取られたり、普段自分が属する場所の法や習慣が通用しなかったり、当然のように享受していたものが失われたりする状況で、自分自身を位置づけるアイデンティティを見失うような場面におかれることで、拠り所を失った生が無意味なものと感じられ、しかしその無意味からこそ逆説的に、生の意味が浮上する場としての「ゼロ度」の身体があらわれる、というようなことで良いのだろうと思う。(すっごい詰まらない要約だけど。ちなみに、アクラム・カーンは、バングラデシュ系イギリス人、シディ・ラルビ・シェルカウイは、モロッコ系ベルギー人だそうだ。)パフォーマンス自体は、語られる内容と直接的に関係するというよりも、隠喩的に響き合うという感じだろうか。しかし、このような語られる内容と、あまりに面白く、あまりに美しく、完成されているパフォーマンスの「有り様」そのものとが、実際、どの程度、どのように重なるのかが、いまひとつ掴めなかった。それは作品の問題ではなく、ぼくの理解力の問題なのかもしれないけど。ひっかかりがあるとすればそこにあるのだけど、でも、それはそれとして、単純に凄く堪能した。
●会場で、大学の時の友人とばったり会った。家族連れで来ていて、まだ小さい(多分、小学校へ上がる前くらいの)子供を連れていた。そんな小さいころから、こんなものを観られるなんて、なんて贅沢な子供だろうと思った。