●引用、メモ。『構造と力』(浅田彰)「第三章ラカン」より。久しぶりに読んだけど、さすがにすごくわかりやすい。
《生ある自然からの致命的なズレ。これこそ人間の根源的条件である。ラカンはその根拠として、ボルクの胎児化説(E186)などを援用しつつ、出生の時期尚早説を強調する。人間は、幼態成熟(ネオテニー)の結果、未完成のままで生まれ落ちる---このことと脳の超複雑化との関連をラカンは見落としていない----ことになり、この上なく無力な存在として、環境との「原初的不調和」(E96)に耐えねばならない。子宮内の生についてはいざ知らず、誕生という「自然の調和からの裂開」(E345)のあとは、死の影に怯えつつ、いやむしろ死を体験しつつ(E186)、「内的世界から環境世界への円環の破壊」(E97)のもたらす幾多の危機を乗りこえていかねばならないのである。その困難な道程こそ、精神分析の追跡すべき当のものである。》
《卵の片割れとしての幼児が喪われた半身を求めて叫びをあげるとき、ドラマは始まる。それは存在欠如の叫びであり、それ自体としては無意味な、いやむしろ過剰なサンスを孕んだ、無指向的な叫びである。しかし、この叫びはだだちにシニフィアンの鎖にすくい取られ、名を与えられる、と言うのは他でもない、おとなたちはこの叫びに「ミルクが欲しい」「暖かくしてほしい」等々といった意味を聞き取るのである。幼児が本当に欲しているのが完全な卵に戻ることであってみれば、それは名を与えられることで必然的にズラされずにはいない。とは言え、それによって部分的にではあれ満足が与えられる以上、満たされそこなって宙に浮いた過剰な部分もまた、シニフィアンの鎖を支える場である《他者》を指向せざるをえない。こうして、叫びが孕んでいた無指向的な欠如は、全面的に満たされるということが不可能であるがゆえに部分から部分へと回付される換喩的運動に従いサンタグマティックに統合されて、指向性をもつ無意識の欲望となり、そのつど個々の対象に向かう特定の要求として、ズラされて意識にのぼることになる。この意味においてラカンは「欲望とは存在欠如の換喩である」(E623)と述べている。》
《幼児が言語の世界に足を踏み入れ、無力な存在欠如の状態から脱して欲望の主体として自己を確立するまでには、長い困難な道のりがあるのだが、その第一歩は、あの有名なFort-Daの遊びに見いだされるだろう。Fort-Daとは母の不在-現前の謂であるが、幼児が母との双数的な関係にある時期のことだけに、その不在はとりわけ危機的なものとして立ち現れる。Fort-Daの遊びとは、自分にとって手も足も出ないこの危機を、音韻対立を用いて記号化することにより、自分の能動的支配のもとに引き受けようとする操作に他ならない。ラカンは次のように述べている。「主体は、喪失を引き受けることによって喪失を統御するばかりか、そこにおいて、自己の欲望を自乗するのだということを、今や私たちは把握することができる。なぜなら、彼の行為は、それが、その対象の不在と現前を先取りする誘惑において現れさせたり消え失せさせたりする対象を、破壊するからである。かくして、彼の行為は欲望の力の場にマイナスの符号を付し、それ自体、その固有の対象となる。そして、この対象はただちに二つの要素的な発射の象徴的な対のなかに形をなし、主体の中で音素の二分法の通時的統合を宣言する。それについては、現存の言語が音素の共時的構造を主体の同化に供する。そして、子供は、FortとDaのなかに、自分が環境から受け取った言葉を多かれ少なかれ近似的に再現することによって、環境の具体的な言説(ディスクール)の体型の中に入り込み始める。」(E319)(略)
こうして我々は、部分的にではあれ欠如を埋めようとする志向、欠如を能動的に引き受け統御しようとする努力こそが、幼児を象徴界へ導き入れるのだと言うことができる。大体、人間が満ち足りた存在であったなら、言葉など必要なかった筈なのである。》
《象徴界のもつこうしたダイナミックな構造は、狭義の構造主義のスタティックな構造概念をはるかに踏みこえている。「無意識は言語活動(ランガージュ)と同じように構造化されている」というラカンの有名な公式は、「無意識は言語(ラング)と同じような構造である」という命題と混同されてはならない。レヴィ=ストロースの、空虚な形式としての無意識の概念は、明らかに後者に近いが、ラカン自身の示唆にもかかわらず、それとラカンの無意識の概念の間には大きな隔たりがある。実際、音韻体系に代表されるような閉じた構造は、無意識の解明に殆ど寄与するところをもたない。真に問題なのは、主体の欲望と《他者》を結ぶ言説(ディスクール)の運動なのである。》