いまおかしんぢ『いかせたい女 彩られた柔肌』

●いまおかしんぢ(=いまおかしんじ)『いかせたい女 彩られた柔肌』をビデオで。この映画がつくられたのは98年で、つまりノストラダムスの大予言がまだ「生きて」いた頃で、そういう世紀末な雰囲気を、今の時点からみると反映し過ぎなんじゃないかと思うくらいに反映している映画だった。一方で世紀末的な雰囲気が濃厚なお話があって、もう一方に、「神代好き」みたいな映画マニアのノリがあって、それが噛み合ないままゆるく結びついている感じだ。冒頭の電車のシーンとか、主演の長宗我部蓉子をやくざのヒモみたいな男が背負って(多分吉祥寺の)商店街を歩いて行く長回しのシーンとか、「いや、神代辰己好きなのは分るけど...」という感じで、あまりこれから面白くなりそうな感じはしなかった。(前に、最初の方だけ観て、観るのをやめたことがあったのを思い出した。ただこれは、映画館のスクリーンにフィルムで上映されると、また感じが随分違うのだろうけど。)いかにも「ピンク映画で先鋭的なことをやってます」みたいな手つきで、しかもそれにしてはキレがない。でも、キレがないところが逆にいまおか監督の面白さでもあって、キレがないからこそいやらしい感じがしないのかもしれなくて、観ているうちに次第に「いまおか」調にのせられてゆくのだけど。
全体として、監督いまおかしんぢが脚本家いまおかしんぢに負けているというか、脚本家いまおかしんぢが、監督いまおかしんぢの資質をいまひとつ掴めていない、という感じがした。「お話」の要素が詰め込まれ過ぎていて、それを処理したり説明したりするのに忙しく、いまおか監督独自のゆるい調子が十分に生かされない、というのか。主役の二人の関係を追ってゆくのか、それとも、冴えない人たちの断片的な群像劇としてみせるのか、が、どっちつかずの感じで、80分の映画で両方やるのは無理があるようにも思える。だから、最近の『たまもの』や『かえるのうた』に比べると洗練されてないのだけど、まあ、そこがまた不思議な感じで面白いとも言える。
この映画は、にっちもさっちもいかない状況に追いつめられた長宗我部蓉子がみる、とても幸福な「夢」で終わるのだけど、ああ、これは『かえるのうた』のラストと一緒だなあ、と思った。この幸福感はぶっちゃけ現実逃避以外のなにものでもないのだけど、でも、これは凄くいいなあと思ったのだった。