アルノー・デプレシャン『魂を救え!』

アルノー・デプレシャン『魂を救え!』をビデオで。前にも何度か観ているけど、すごく考え抜いてつくられているのはデプレシャンだから当然として、でも、デプレシャンの映画のなかでは(決してつまらないわけではないけど)一番魅力に乏しい映画のように感じていた。しかし改めて観るとそんなこともなかった。おそらく、映画として、デプレシャンの企みがそれほどうまくはいっていないという点は確かにあるように思う。(ただそれも、『そして僕は恋をする』という凄い映画を観た後でふりかえってこの映画を観たからそう言えるんで、いきなりこれが新人の長編第一作だとして見せられれば、ただ驚くしかないようなものだと思う。)でも、例えばこの映画の、若いエリート官僚たちとその取り巻きたちのつくる狭いサークルの描きかたなど、それだけとってみても、こういうのは他ではあまりみたことがないという面白さがある。特に、主人公と同居することになる、国防省のエリート(と自分で言っている)男の人物造形など、本当に面白いし生き生きとしている。(こんな奴が本当に近くにいたら凄い嫌だ、でも若い官僚とかには凄く居そうだ、とリアルに思える。)この人物を「出現させた」というだけでも、この映画は充分に素晴らしいと言える。(あと、安息日だからバスの降車ブザーが押せない、とかいう研究所の同僚とかも素晴らしい。喋る時の口元のいやらしさとか。)
デプレシャンの映画の面白いところは、出発点として既成のジャンルなり、過去の映画なりを参照していることはあっても(大いに参照していても)、それはあくまで作業をはじめる出発点としてであって、決してそれを着地点を「正当化」するために使用しないところにあると思う。デプレシャンは、「正しい」着地点がどこかにあり得るという信仰をおそらくはじめから持ってはいないのだろう。たぶんそれが、デプレシャンの強さであり同時に弱さでもあるのだろう。正しいカメラの位置、正しい俳優の動き、正しいショットの有り様、正しい物語、がどこかにあって、それを探求するというのではなくて、考えられる限りの可能性のなかから、もっとも多くの「意味」に開かれた状態が(あるいは最も多くの穴が穿たれた状態が)探られ、それが、その場での暫定的な着地点となる。(だからデプレシャンの映画を、どういう映画なのか説明するのはとても難しい。ある意味、どうとでも言えてしまう。)デプレシャンにとって映画史とは、継承された「掟(や魂)」のようにしてあるものではなくて、そこから何かを読み取るべき開かれたテキスト(=アーカイブ)として、あるいはそれ自体としては意味を確定されない「世界」そのものの代替物として(まさにこの映画のミイラの首のようなものとして)あるのだと思われる。だが、その(映画=ミイラの首の)有り様はこの映画では実はそう単純ではない。この映画では(あからさまに゜映画」の隠喩でもある)ミイラの頭部は、微妙に、「父」や「継承」という主題と結びついてもいる。
●ドイツの田舎からパリへと向かう電車のなかで、主人公の鞄のなかに見ず知らずのミイラ化した死体の頭部が入れられる。その死者の頭部の扱いに困った主人公は、一度はそれをコインロッカーへと遺棄するのだが、やはりそれを「なかった」ことには出来ず、持ち帰る。法医学の研修生であり、父親が外交官であるために官僚たちとの関係もある彼は、その頭部を預けた者は、自分が「そのような」立場であることを知って、何かを伝えようとしているのだと気付く。主人公は死者の首を、(1)科学的に分析して誰のものか特定しようとし、(2)宗教的に埋葬しようとし、そして(3)この死者を「いなかったもの」としようとする官僚たちの手に渡らないように行動する。
主人公は、外交官であった亡き父に背くように法医学を志し、父のつくった官僚たちのコネクションからも逸脱しようとする。それは、彼の意思とは無関係に(彼の意思以前に)決定され、与えられてしまっていた環境(あるいは父そのもの)をそのまま継承することの拒否であろう。そしてそれを決定的にするのが、鞄に入れられていた死者の頭部だろう。しかしこの死者の頭部もまた、彼の意思とは無関係に与えられてしまったものに変わりがない。だとしたら何故彼は、父から与えられたもの(世界)は拒否し、別の誰かから与えられたもの(世界)を受け入れるのだろうか。それは、彼の周りにいる若い官僚たちがあまりに軽薄で俗物なのに対し、死者の首(という「物」)が何かしら崇高なものを彼に突きつけるからだろうか。あるいは、実際に生きていた人間を「存在しなかった」かのように扱おうとする「国家」に抗しようとする倫理からなのか。無言の「物」である死者の頭部の「存在」が彼に突きつける「応答責任」に対して、彼はそれに応えようとせざるを得なくなる、と言えば「哲学的」にはすんなりするかもしれない。しかしむしろ、いきなりあらわれた、どこにも帰着する場所のない「死者の首」の有り様に、母のもとを離れたよるべなさを感じ、父の築いたコネクションからも疎外感をも感じていた主人公が、自らの孤独を重ね合わせて見てしまったから、というのが側面をそこにみないでいられるだろうか。つまり彼を科学的な探求、政治的な抵抗に誘う、高貴で倫理的な責任感は、自己イメージの死者への投影によってこそ生じているものと言えはしないないだろうか。死者を「存在させる」こと、切り離された頭部に「文脈(歴史)」上の位置を与えること、人としての尊厳を帰してやることが、自分を「存在させる」こと、自分自身の位置を得ること、自刃の尊厳を獲得すること、の代替的な「表現」となっているという側面が強くあるのではないか。
別の側面からみてみる。彼の父親は冷戦時代の外交官であり、彼は、父親の努力や仕事の功績は、冷戦終結によって意味のないものになってしまったかのように感じている。そして彼に与えられた頭部もまた、冷戦時代の遺物としてあり、そのために官僚たちはそれを「なかったこと」にしようとしているらしいと、彼は気付いている。だとすれば、彼にとって 死者の首にこだわることは、父(の残した環境=関係)を拒否することであると同時に、父(の失われた業績)を回復するという意味ももつ。つまり死者の頭部は、彼自身の存在ばかりでなく、父の業績そのものをも「表現する」ものとなろう。父に背くように法医学者を志してパリに出た主人公は、しかしパリでの彼の周りにある環境もまた、父の関係者ばかりで形作られていることにいらだつ。父の力の圏外にあるのは法医学の研究所内部のみで、その圏外の場所でこそ、彼は死体を科学的に分析することを通じて、父の業績に意味を改めて与えようとする。つまりここで彼は、世俗的な関係(転移関係)のなかにある父を拒否し、そこから切り離された、科学的な研究室において父を見いだし、そのような側面で父を受け入れる。
しかしまた、実は死者の頭部は決して父そのものでもなければ父の業績でもないことも忘れてはならない。それは本来彼とは全く関係のない誰かの首であり、彼の意思とは全く関係のないところにある「他者の意思」によって彼に届けられた、彼にとっては「異物」でしかないもののはずなのだ。本来それは、彼自身の存在や、彼と父との関係の圏外にある即物的な現実であり、まったく別の事柄に属するもので、それが彼のところに届けられる必然性は何もないし、彼がそれを「受け入れる」必然性もないはずなのだ。実際、彼も最初は「それ」を異物として撥ね付ける。しかし彼は結局は「それ」を受け入れる。それは「他なるもの」に対する倫理からなのか、それとも「転移」によるものなのか。あるいは、たんに避けられない現実を受け入れたというだけなのか。
おそらくこの映画での彼の態度は正しいのだろう。しかしこの正しい行動は、あくまで自分の孤独を慰撫するという動機によってその推進力を得ている(死者を「存在させる」ことが自分を「存在させる」ことの代替的な「表現」となっている)という可能性は捨てられない。だからといって彼の行動の正しさを批判するということではない。しかしその(普遍的な?)正しさを導き出し、その行動に燃料を与えているのが、私的な欲望である可能性は忘れられてはならないのではないか。映画の終盤に主人公は、一つの死体(の存在)を守るために、新たな死体を一つ生産してしまっている(つまり一つの生命=存在を消してしまっている)のだ。それが正しいのか正しくないのか、二つの「死体」のどちらが優先されるべきなのか、は、「正しさ」によっては決定できない。だからこの映画は、威勢のいい政治的スローガンを掲げているわけではないし、ひとつの高貴な悲劇が歌われているわけでもない。ここには「良いもの」としての「幻想」が(あまり)賭けられていなくて、ただ、こういうことがありました(あり得ます)、という風に、世界のある一面の因果関係が出来うる限りの密度で組み上げられ、描出されて、目に見えるようにされている。(『魂を救え!』というメッセージ性の強いタイトルは邦題で、原題は確かたんに『歩哨』というような意味だったと思う。)
●「正しさ」を信仰しないということは、どこかに何かしらの「到達点=着地点(真理や普遍)」があるのだということを目標とせずに、何かを展開し、何かを追求し、何かをつくりつづけるということだろう。それはどこまでいっても、理知的な探求とざわめく多義性とバランスの問題(と感情の波立ち)があるばかりで、決定的な一打は決して訪れない。それはある種の「諦め」なしにはあり得ない営みだろう。そしてぼくはそこに、ヨーロッパ的な成熟した(老成した)知性(=去勢)のようなものを感じる。デプレシャンがほとんど常に、閉ざされた狭い範囲の関係を取り上げ、それを丁寧に、うんざりする程に執拗に、こね回してみせるのは、その閉ざされた関係の外に(他に)何かしらの超越的な価値(良いもの、美しいもの)があるという幻想を信じられないからだろう。そして同時に、その閉ざされた関係のなかにさえ、いくらでも「穴(隙間/亀裂)」が空いていることを発見出来るということではないだろうか。だからぼくがここに書いた「正しさ」をめぐる思弁がこの映画で重要なのでは全くなくて(しかしこういう「正しさ」についての思弁を思わず書かせてしまう点で、この映画はやはり他のデプレシャン作品よりは弱いと言えるかもしれない)、「穴(隙間/亀裂)」こそが、つまり一つ一つの場面や、一人一人の登場人物たちの充実した有り様が示す手応えこそが、重要なことなのだ。