平野勝之『由美香』

平野勝之『由美香』をビデオで。この作品が傑作だという評判は知っていたけど、ここまで素晴らしいとは!、と驚かされた。作品をつくるには作家の才能とか努力とか運とかいろいろあるだろうけど、傑作というのは、その作品にまつわるあらゆることが、その作品を優れたものにすることに力を貸すというか、そういう「流れ」が出来てしまうもので、そこでは偶然も必然も違うものではないのだなあ、と思い知らされる。正直、はじめの方を観ている時は、実際に自分がつきあっている女の子にカメラを向けたりすると、こういう距離のない、ねっとりと気持ちの悪い、いたたまれない感じになってしまいがちなんだよなあ、と、ちょっと引きぎみだったのだけど、しかしつづけて観ていると、それも含めてこの作品の素晴らしさなのだと気付かされる。映画を褒める時のクリシェで、観ていて、映画がいつまでも終わらないで欲しいと思った、というのがあるけど、ぼくは、一カ所に長い時間じっとしているのが得意ではないし、映画を観続けるには集中力や体力の持続が必要なので、そういう風に思うことはあまりなくて、大好きなリヴェットの映画でも、長い映画を観る前には相当の「覚悟」が必要なのだけど、この作品に関しては、途中から、まだ終わらないで欲しい、まだまだ続いて欲しい、ずっとずっとつづいて欲しい、と思っていた。人が場所を移動すること、そして移動しつつその風景のなかにいること、は、ただそれだけで凄いことなのだと思い知る。(柄谷行人の『日本近代文学の起源』の「風景の発見」ははっきり間違いだと確信したのだった。)この映画のどこがどう良いのかといわれても、ここがこう良いとは言えなくて(この作品を構成する要素の多くが僕の「好み」ではないし、林由美香の容姿もまったくぼくの好みではないし)、あらゆる要素が(と言うか、あらゆる要素の重なり方が)、それ以外にあり得ないというあり方をしているのだと思う。しかもそれが、決して事前には予測できないようなあり方で。(例えばこの作品は、一面で極めてパーソナルなセルフドキュメンタリーであるのだが、同時にAV作品であり(AVとして「売れる」ものであることが要請されていて)、AVとしての企画がなければ、撮影するという行為自体が成り立たないどころか、この旅行そのものがあり得なかった。あるいは、この作品は一面で、不倫カップルの「二人だけ」の閉ざされた関係の記録であるが、同時に、北海道の開かれた風景のなかを移動しつつ、その関係が行われている。あるいは、この作品は、基本的に監督の平野勝之がカメラを持って林由美香を撮影しているのだが、時折、林由美香がカメラを持って、眠っている監督を撮ったりするショットも混じっている。この作品ではあらゆる場面で、矛盾する複数の力の微妙な拮抗がみられるのだ。)
ちょっと前に横浜のシネクラブにドワイヨンの映画を観に行った時、ゲストでトークした風間志織監督が、この映画(ドワイヨンの『恋する女』)を観ると、映画って何て自由なものなのかと思う、と話していた。ぼくもまた、『由美香』を観て、映画って何て自由なものなのだろうと思う。自由というのは、何でも好き勝手に出来るということではなく、形式とは関係ないところで何かがピタッとかみ合ってしまうことがあり、そのかみ合い方は、それを事前に知るため(制御するため、規定するため)の法則というものがない、ということで、つまりここでの「自由」とは、このような傑作が出来上がってしまった後になって、事後的に見出されるしかない自由のことなのだ。