『馬』(小島信夫)と「風景」

●確かに、「風景」は内面的な人間によってのみ見出されるのかもしれない。しかしそれはあくまで「意識」されるということで、それを意識しない人にも「風景」は作用するのではないだろうか。
●昨日読んだ小島信夫の『馬』には、風景がまったく出てこない。というか、空間が風景として構成されない。昨日、『馬』には距離や位置関係があると書いたけど、しかしその距離や位置関係は実はそんなにはっきりはしていない。主人公の庭に建てられた家が、どのくらいの大きさなのか、どんな間取りなのかはさっぱり分らないし、病院と家との位置関係もよく分らない。小島信夫の小説によく出て来る家の前の石段が、(あれだけこだわって書かれているにも関わらず)家の敷地に対してどのようにあるのかも、よく分らない。頭のなかで空間的な見取り図が描けない。だが、そこに空間や距離がないのではなくて、多分パースペクティブがないというか、全体を貫いている空間を計る基準が成立していない。だから空間が風景として構成されない。そしてそのことと、主人公と奥さんとの関係のあり方とは結びついている。(『馬』はそれほどではないけど、『抱擁家族』を読んでいると酔ったように気持ち悪くなるのは、おそらくそのせいもあると思われる。『抱擁家族』では、空間の基準の失調状態の「なかで」何かを描ける自信が作家にあったから、もはや『馬』のようなシュールな展開は必要なくて、私小説的なもので充分だったのかもしれない。)
●だとすると、やはり「風景」というのは、距離とパースペクティブがあって、目の前にあるものを一望のもとに把握するような余裕のある視線によってこそ構成される、ということなのだろうか。例えば、散歩の時に見ている風景は、散歩をするという行為に従って構成される。それは、「歩いて移動している」こと、そして「特に目的がないこと」「気楽であること(特に危険を想定する必要がないこと)」等によって規定される。つまり散歩では「歩いて移動する気軽な身体」が、空間を計る基準、というか、空間を成立させ決定する基準として働いている。散歩する人は、たしかに実際にその環境のなかにいるが、その環境によって何か切迫するものが強いられてはいない。それは、その場所にいながらも、その場所からややズレはところにいて、その場所を認識している自らの身体や感情の動きそのものの方を、感じているということなのだろうか。
●『馬』の主人公は、家の前の石段にこだわるし、家そのものにもこだわる。自分の部屋が北向きであることや、奥さんの部屋が南向きで、奥さんは常に隣りの家を気にしている、ということにもこだわる。つまり、風景は構成されないけど、作用している、のではないか。そこでは、主人公は環境のただなかにいて、環境や関係に強く拘束されていて、つまりほとんど環境と一体化しているのだが、しかし一体化しているからこそ、環境そのものへの違和感が常に切迫したものとしてあらわになる。
●散歩によって見られる風景が、散歩という行為に規定され、散歩するぼくの気分に染められているとしても、それが全てを染め尽くしはしない。逆に、風景の有り様によって、テクスチャーによって、ぼくの行為や気分が染め返される。散歩しているぼくの「内面」の意味が、そこにある風景そのものとなる。内側が外側に投影されるだけではなく、外側こそが内側になる。それがなければ散歩など退屈なだけだろう。そしてそれが可能なのは、その環境と私の身体の間に、とりあえずは切迫した利害関係がないからなのだろうか。
●今日の散歩(http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/sanpo070210.html)