『東京から考える』(東浩紀・北田暁大)1

●電車のなかで『東京から考える』(東浩紀北田暁大)をパラパラみていた。まだ半分くらい、サラッと読んだだけの時点で頭に浮かんだ、無責任な印象に過ぎないことをことわりつつ、思ったことを書く。
●この本はつまり、もはや「おたく」は「動物化」の最前線とは言えず、その最前線は「ヤンキー」にこそある、ということを言っているようにみえる。サブカルとおたくとの闘争ではおたくは勝利し、おたくが市場のなかで一定の量として認知されつつあるとしても、それはあくまでマイナーな集団にすぎず、その消費行動を通じて市場の動向を決定しているのは「ヤンキー」的消費者の方である、と。ただ、ヤンキーについては、『動ポモ』のような文化研究的なアプローチをしても面白くないし(「作品」として面白くならないし)、だいいち、おたくに対するのと同等の愛情をヤンキー文化について抱くことは出来ない。だから「都市論」なのだ、と。ジャスコ的郊外で、親子連れでジャージ姿で車に乗って、ファミレスやツタヤやドンキに出かけるヤンキー的な層こそが、日本の消費の中心にいて、それは経済格差とかあまり関係がない。金持ちは、六本木ヒルズ恵比寿ガーデンプレイスに住んで、ツタヤやドンキに通い、貧乏人は、もっと郊外に住んで、ツタヤやドンキに通う。金持ちだからと言って、必ずしも「文化資本」的に豊かだというわけではない、という東氏の発言は、経済的にどのような階層においても、常に多数派はヤンキーが占めているということを言っているように聞こえる。
動物化し、人間工学的に支配された消費行動をとるヤンキーによって占められるジャスコ的郊外に抗するものとしてあげられているのが、「上流」という「共同幻想」によって支えられる、青葉台のようなシミュラークル的広告郊外と呼ばれるもので、中央線沿線や下北沢のような、独自の歴史的、文化的な蓄積のある「においのある都市」ではないところに、東浩紀という人の、「文化的」なものに対する根深い不信というか、憎悪のようなものを感じてしまう。(「においのある都市」が「テーマパーク」としてしか生き残れない、というのは、東氏の「敵意」の表現ですらあるように感じられる。西荻について語る時ににじみ出るの東氏の敵意の感触。「においのある都市」が非常に「鬱陶しい」ものであることは、ぼくだって充分過ぎるくらい理解しているつもりなのだが、その「鬱陶しさ」こそが、ヤンキー化に抗する最大の防衛となっている側面があることは否定できないのだ。ぼくも、動物的で粗暴なヤンキー的世界に、ある種の清々しさのようなものを感じはするのだが、しかしそれだけではあまりに身も蓋もないし、逃げ場がないのではないだろうか。というか、文化の持つ「鬱陶しさ」につき合うのが「大人」ってもんなのではないだろうか。まあ、そういう意味では、ぼく自身も全く「大人」ではないのだけど。)
例えば、北田氏の、フラットな郊外と言っても、子供はそこに勝手にたくさんの「穴」を見出してしまうものだ、という発言に対して、青葉台ではまったく「穴」がないからこそ快適だったと応える東氏が、一体どこまで「本気」なのかはちょっと疑わしい。(いわゆる「文化的なもの」に対する反感が強く出過ぎしまっているようにも感じられる。)一方で東氏は、《都心に住むのは、思想的に敗北という感じもしますね。ショッピングセンターとファミレスしかない荒れ果てた郊外で日本社会が崩壊していくさまを肌で感じないと、批評なんて書けない感じがする(笑)。》という発言もするのだが、これもちょっと格好付け過ぎみたいに思える。確かに、荒れ果てたジャスコ的郊外にこそある種のリアリティがあることは理解出来るのだが(例えば最近のJ.Gバラードの小説がイマイチなのは、シミュラークル的広告郊外しか描いていないからかもしれないし、それよりも佐藤友哉の方が確かに面白いし)、しかし、「穴」のない郊外を快適だと言い、常に「世代」を気にし、自らの「外傷」(外傷の共有化)を研究の動機として強く打ち出す傾向のあるようにみえる東氏のような人が、まさに穴だらけで粗暴な「郊外」に耐えられるとはあまり思えない。(問題は、そこに「耐えられない人」が不可避的に生まれてしまうということ、その人たちの「逃げ場」がなくなってしまうということなのだと思う。)
ヤンキー化する都市。ヤンキー化とは文字通りアメリカ化のことだろう。一切の文化的成熟を犠牲にして、巨大な生産と消費の効率的なサイクルをつくりだすこと。そのために人間を(人間工学という名において)動物として扱うこと。そのように扱われることを自ら受け入れること。そこに積極的によろこびを見出すこと。(ヤンキーに比べればおたくはずっと「文化的」だろう。)北田氏が、「文化的」になんとかこれに抗する軸がみつけられないかと考えているのに対し、東氏はこれを、積極的にではないにしろ、仕方が無いこと、不可避的なこととして肯定しているように思える。そしてこの肯定の根底には、文化的なもの、人間的なもの(あるいは、文化的で人間的な人たち)、に対する根深い不信と反感があるように感じられる。そしておそらく、多くの「日本人」に、この感情は、深いところで共有されているようにも、思われるのだ。
東浩紀が、八十年代の吉本隆明とダブってみえる。『郵便的不安たち』が『空虚としての主題』で、『動物化するポストモダン』に連なる一連の著作が『マス・イメージ論』、そして『東京から考える』のような都市論が『ハイ・イメージ論』と重なるようにみえる。『ハイ・イメージ論』は最初の方しか読んでないけど。