同じ間違いを何度も繰り返す

●同じ間違いを何度も繰り返す、絲山秋子と言おうとすると、二回に一回は「あきやまいとこ」と言ってしまう。宮崎あおいと言おうとすると、十回に八回は「宮崎ますみ」と言ってしまう。
●分析。上の文章の発言主が主に言いたいのは、二番目の、宮崎あおい宮崎ますみと言い間違えてしまうという方であると思われ、最初の間違いの例は、それを引き出すための前振り的な役割であると考えられる。(それは、間違いの頻度や、間違い方の性質からみても妥当だろう。最初の間違いは、たんに文字を読み取る際の、字面からくる視覚的混乱に起因するものに過ぎない。二番目の間違いもまた、視覚的、音韻的な混乱を媒介とするが、しかしの間違いが実在する芸能人の名前として、具体的に決像する点で大きく異なる。つまり二番目の間違いは、混乱に起因するのではなく、混乱を「利用」しているのだ。)そして、二番目の間違いにしても、より重要なのは間違えられる「宮崎あおい」ではなく、無意識に出て来てしまう「宮崎ますみ」の方であり、この文は全体として、筆者の、決して熱くはないが、執拗に持続する「宮崎ますみ」への執着を表現するものと思われる。(ここで宮崎あおいという名前は、抑圧された宮崎ますみが回帰するための媒介=通路という役割であろう。)さらに、ここで執着されているのは、芸能人としての「宮崎ますみ」本人ではなく、彼女の演じた「三原山順子」というキャラクターへのそれだと推測すべきだろう。(この推測には「飛躍」があることは認めざるをえないが。)よって、この文章が主張している「内容」を要約すると、「私はヤンキー好きだ」ということになろう。より正確に言うならば、「私は、ヤンキーに対するあこがれを、この年齢になってもまだ捨て切れずにいる」となる。
●『ビー・バップ・ハイスクール』(映画)において、ツッパリや不良は記号化された表象として扱われていた。そこでの不良同士の抗争や暴力沙汰は、多分に遊戯的な無償性の発露としてあった。(そこには、同じ東映系のヤクザ映画にあったような、様式的なロマンチシズムさえも消えていた。)しかし一方、それを受容する観客の多くはリアルにツッパリであり、ヤンキーであった。よって、その実在するリアルな感触が、その作品からきれいに消去されていたわけではない。(ことにリアルだったのは、セットも含めた「風景」だった。)例えば『スケバン刑事』(テレビ)における「スケバン」は、完全に記号化されたものであり、ネタとして無害化されたもので、そこにリアルな感触はきれいに消されていた。しかし『ビー・バップ・ハイスクール』では、それが上映される映画館の雰囲気からして、ヤンキー的なヤバい感がありありだった。