マルコ・ベロッキオ『夜よ、こんにちは』

マルコ・ベロッキオ『夜よ、こんにちは』をDVDで観た。去年、ベロッキオの新作が公開されたのは知っていたけど、前に観たベロッキオが『肉体の悪魔』(って、もう二十年前の映画なのか!)で、特にすごく面白かったという印象もなかったので、スルーしてしまった。で、DVDで出たので観てみたら、すごく良かった。ベルトルッチが弛緩し、アンゲロプロスがスペクタクル化してしまった今もなお、この人はまだ土俵際で徳俵に足をかけて踏ん張り、「残って」いるのだ。(『サバス』を観ていたのを忘れていた。といっても、忘れていて当然のような映画なのだが。『サバス』を観ていたから、この人はもういいやと思ってしまったのだった。)
実際にあった事件を題材として、「事実としてあったこと」と、「あり得たかも知れない別の可能性」とを並列して語るというような話は、創造社時代の大島渚なんかを思い出すような、ちょっと昔の前衛映画的な手法だとも言えて、新しくて刺激的にことをやっている感じはしない。しかしその態度は、例えば68年をノスタルジックに語るような一連の作品などよりずっとクールで、過去に対する(あるいは未来に対する)緊張を失っていない。
何とも素晴らしいのは空間の造形で、「赤い旅団」がモロ首相を監禁するアパートの部屋の構造、その閉じられつつ開かれた不思議な有り様と、そこを出入りする物や人、その描写がとても面白い。というか、この映画では、そのような空間を造形し、描写することが「事件」を語ることだとみなされている。首相が監禁される最も閉じられた場所と、メンバーたちが生活する空間との間にある、中間的な狭い空間。外から内を見るための、閉ざされたドアの覗き穴と、内から外を見る玄関の覗き穴。外来者が入って来る玄関のドアと、仲間が出入りする駐車場直通のドア、そして、庭へと開かれた窓。このような、いくつかの段階に分かれて層をなす(閉じられ、かつ、開かれた)空間のなかで、閉じ込められた者と閉じ込める者、覗き込む者と覗き込まれる物、外から入って来る者と外へと出ようとする者、などが、その複数の仕切り、複数の層を前にそれぞれにうごめき、そこに様々な力が作用し、交錯する。そしてこのような力と運動のせめぎ合いこそが「政治」として表象される。そして、このせめぎ合いが高い緊張をもって描かれるからこそ、ラスト近くの、首相が嘘のようなあっけなさで表に出られてしまうシーン、そして、街路を歩くシーンが素晴らしいのだ。高橋洋黒沢清との往復書簡で語ったこと、「映画と現実との闘争で、映画があっけなく勝利してしまう瞬間」とは、まさにこの映画のラスト近くにある、このシーンのことだと言えるのではないだろうか。勿論、この結末は事実とは異なる。そして、事実も、この後「事実」として示される。だからこのシーンは、眠り込んでいる主人公の「夢」でしかないし、あるいは、この映画の元になったとされる実行犯の手記に書かれた、事後的な「反省」でしかないかもしれない。しかしだからこそ、このシーンが「映画」として描かれる必然性を持つし、映画としての強さをもつ。
こういう過去の事件を元にしたフィクションは、往々にして、「彼等は確かに間違っていた。しかし、彼等なりに一生懸命だった」とかいう感傷的で馬鹿げた、ノスタルジックな「青春もの」になっててしまいがちだ。あるいは逆に、単純にテロリスト=悪役という、単純で思考停止の物語に。ベロッキオがやっているのは、そういうこととは全くことなる。ある事件の「真相」を分析的に示しているわけでもない。これはたんに「赤い旅団」事件に取材したフィクションではなく、フィクションという一つの思考の実践としてある。この女性主人公に実在するモデルがいるのかどうかは知らないが、この主人公を「造形」することそのものが、突きつけられた「事件」という問題に対するベロッキオの一つの解答としてある。だからこそこの映画は、特定の事件を超えた射程をもち、作品としての実質を持つ。そして、ラストの展開は、たんにあり得たかもしれない可能性や「希望」を指し示しているのではなく、現実と同等の重みをもつ「フィクション」としての実質が提示されているのだと思う。