●部屋に戻ってテレビを点けたら、ニュース番組の天気予報で「今日は四月並みの陽気でした」と言っていた。でも、夕方吹き荒れていたピューピューと強い風はかなり冷たく、久しぶりに「冬」を感じた。それにしても、今年の冬はシビアに「冬」を実感することがあまりなく、まだ本格的には冬に突入していてないという感覚のまま、もう既に花粉の影響が出始めて、朝夕には目が痒く鼻がぐしゅぐしゅする。こんなにも「冬の芯」を感じることのない冬は多分生まれてはじめてで、これはたんに暖冬というのとは随分と感じが違う。だいたい、暖冬で雪の降らない年は、もうすっかりあたたかくなって春になったと思った三月頃になって、どかっと大雪が降ることが多いというのが四十年近く関東地方に住んできた経験的記憶としてあるのだけど、今年はどうもそんなのとも違う感じがする。
おおげさな言い方になるけど、地球の歴史を考えれば季節の反復さえ決して安定したものではなく、もっと言えば地殻すら必ずしも安定しているわけではなくて、環境は常に不安定に変化し、未来は予測不能な様々な「新たなもの」の到来を排除しない。だからこそ人間は、(例えば言語や習慣や法のような)擬似的な安定的(同一的)に反復する装置によって(依って)、自らの存在の安定という「信仰」をつくりだす必要があるのかもしれない。言語は基本的に同一性という信仰をつくりだす装置であるとすれば、その記述は常に後追いであり(後追い的解釈でしかないものを「普遍」と勘違いさせるものであり)、変化に対してはきわめて弱いものだろう。人は言語という信仰(安定装置)がないとやっていけない反面、言語はいつも人を裏切る。
(しかし人を「安定」させるものは、言語や法だけでなく、記憶というものもある。例えば慣習とは、それが時間のなかにあることによって記憶に近く、言語や法と記憶の中間あたりにあるものなのかも知れない。記憶もまた、人を安定させ、不安定で流動的な現実から自身を防御し、ある「厚み」をもった判断や行動を可能にするのと同時に、記憶自身への微睡みを促し、あるいは記憶への捕われを促し、それはおそらく新たなものの到来という意味での「現実」と相反するものとなり、人はそれによっても外的な現実を取り逃がす。しかし記憶は言語と違って、それ自身として一つの「現実」でもあり得るのではないだろうか。)