『渚にて』(ネビル・シュート)つづき

●ゆっくり、ゆっくりと読んでいた『渚にて』(ネビル・シュート)を読み終わってしまう。読んでいたここ三日くらい、すっかりこの小説の世界にハマッていて、昨日の日記など、いかにも「染まって」いて、我ながらちょっと笑ってしまう。
この小説の淡々とした調子は、人を驚かせるような派手なアイデアなどに依存しない内容的なものによるところもあるけど、独自の時間処理のあり方にも原因があると思う。一つ一つのシーンを割とあっさりと切り上げ、その後、結構大胆に時間や場面がポーンと飛ぶ。場面転換が切れがよくて、この「切れ」が効果的に時間を流れさせる。だから特別派手な展開がなくても飽きることがない。小説全体の構成もそうで、前半は、「終末」が避けられないことを人々は知りつつも、それはまだ一年近く先のことで、(この「一年」という期間の中途半端さもあって)どこかそれがリアルには信じられないという「余裕」のようなものがある状態を、割合ゆったりした調子で描いている。そして中盤以降、主要な登場人物たちがオーストラリアを離れ、世界の放射能の状況を調べるための、潜水艦に乗っての三ヶ月という長い任務に出るのだが、この三ヶ月がびっくりするくらいあっけなく描かれ、搭乗者はすんなりと無事帰還出来る。しかし、潜水艦が帰って来た後の地上は、既に「終わり」まですぐという切迫した状態になってしまっている。まあはじめから、この小説で重要なのは「潜水艦での冒険」などではないのだから、この潜水艦での任務は、地上での時間の質的な変換をもたらすための亀裂として機能しているように思う。
とはいえ、後半になって大きく何かが変化するわけではない。ただ、誰もが「終わり」を強く、リアルに意識せざるを得なくなるというだけだろう。「終わり」の恐怖を軽い冗談で流すような感じではなくなり、誰もが自らの「軽い狂気」を強く意識し、そしてまたその狂気への依存をも意識しつつ、それへの依存を強めてゆかざるを得なくなる。しかしそこでもまた、ことさら破滅的な光景が描かれるでもなく、人々の抑制は持続している。(カーレースに熱狂する技師ですら、抑制をもったレース運びで「生き残る」。)
ここでの人々の「抑制」は、抑制のための抑制であり、空虚なものであろう。それは、世間様から後ろ指をさされないためのものとか、崇高な理念や人間性への信頼のため、普遍的正義のためのものなどではなく、内容を欠き、現実と乖離した形式のための形式で、それはむしろ「惰性」にさえ近いものだ。人は、何かのために抑制するのではなく、ただ抑制それ自身(慣習化され、馴染んだ形式それ自身)によって自らを辛うじて支え、それによってこそ最後の瞬間まで「生きる」ことが可能になる。抑制や形式は決して人を(人間的な自然を、欲望を)縛るものではなく、それに頼ることによってはじめて人が生きることが可能になるようなものなのだ。ここでの抑制は、言ってみれば痩せ我慢であり、建て前であり、「自分の気持ちに嘘をつく」ことですらあるのだが、「自分の気持ちに嘘をつく」ことによってしか、人は「自分として生きる」ことが出来ないのだ。この小説は、そのような感触を、非常にうつくしく描きだす。(ああ、イギリスの小説だなあ、と思う。)ラストに近づけば近づくほど、現実的な状況と「建て前」との乖離が大きくなり、描き出させる光景はどこかシュールな、夢の話ような感触になってゆく。(ただここで、空虚な形式を唯一支えているのが「記憶」ということになろう。)
考えて見れば、一年後に人類のすべてが死滅することが間違いなく「確定」しているとすれば、それは人類が抱えるあらゆる問題が解決されてしまったのと等しい。問題は消滅し、歴史は停止する。だからこれはある種のユートピア小説なのかもしれない。そこで残されたただ一つの問題は、それぞれの人の「自分の生と死」のみであろう。だからこそ、みんなが(ほぼ)「一緒に死ぬ」のにも関わらず、それぞれが個々に「一人で死ぬ」しかないことが、はっきりと浮き彫りになる。