吉田喜重『鏡の女たち』と『さよなら妖精』(米澤穂信)

吉田喜重『鏡の女たち』をDVDで。とにかく、半端ではなく気合いが入っているのがビンビンに伝わってくる。それは凄いと素直に思う。あらゆるカットの、構図、照明、繋がり等々がいちいち、やたらと凝っている上に練り込まれている。しかしそれが、ちょっとギラギラした感じに浮いてみえて、過剰な装飾のようにも感じられてしまう。実写の映画というより、装飾過多なアニメーションの演出のようにみえてしまうのだ。(アニメーションの演出のように感じられてしまう一因に、吉田喜重監督の映画の特徴とも言える、人物の台詞や動きの「不自然さ」があるようにも思う。この不自然さは、それ自体として良いとか悪いとか言うようなものではなく、吉田映画の特徴のようなものであり、それが作品のなかで上手く作用した時、独自の質をもつものとなる。しかしこの映画ではそれが、審美的な次元での「静謐さ」みたいなイメージと安易に結びついてしまっているように思える。)
確かに、例えば田中好子がはじめて登場するアパートの前のシーン(岡田茉莉子室田日出男が乗った車が着き、部屋を確認し、留守だったので車まで戻り、そこに田中好子が向こうから歩いて来て、室田日出男が声をかけ、二人が部屋に招かれるまでの一連の流れ)などは、本当に凄いと思うし、公園を捉えた横移動のカットとかは、ゴダールかと思うような息を呑むものだと思うけど、冒頭の、岡田茉莉子をカメラが追ってゆくシーンの流れは、「掴み」として引き込まれはするけど、あまりに「思わせぶり」に過ぎると思うし、公園の木漏れ日のベンチのカットなどは、審美主義に走り過ぎているように思える。(むしろ、一色紗英がはじめて登場する、階段を見上げるあっさりしたカットみたいな感じの方が良いように思われる。あと、この映画の全ての俳優たちのなかで例外的に「あっさり」している北村有起哉がとても良い。)全体として、ピンと張った緊張感が漲るところと、装飾的な審美主義に走っているところがせめぎあっていて、審美主義がやや勝ってしまっているという印象を受けた。この印象は、「音楽が良くない」ということも大きく作用していると思われる。現代音楽風の不協和音を奏でる音楽は、あまりに雰囲気的に画面とマッチし過ぎていて、画面の安易な説明のように響いてしまい、緊張を壊してしまう。
あと、広島に向かう飛行機のなかでの「光りが射す」ところとか、母娘の関係の普遍性みたいなものを「影絵」として表現するところとか、そういう象徴的表現が、上手く行っているとは思えなかった。(正直に言えば「クサい」と感じられた。)あの、鏡に走っている、あまりにも格好良過ぎる亀裂は、ああまであからさまに示されると逆に納得してしまったりもするのだが。
●ただ、この映画で最も気になったのは、そういうところよりむしろ、この映画にとって「ヒロシマ」がどの程度必要だったのか(必然性があるものなのか)が疑問に思えた、という点だ。それは、フィクションが歴史的な事実とどのように関わることが出来るのか、ということでもあろう。この映画は、たんに三人の(三世代の)女性の話というだけで充分で、それが「ヒロシマ」と結びつく必然性は弱いのではないか。岡田茉莉子の隠された過去、そして、三人の女性を結びつけ、重ね合わせ(そしてその差異をも際立たせもする)ものが、「ヒロシマ」での体験である必要が、どの程度あったのだろうか。この物語においては別に「ヒロシマ」でなくても、他の何かでも代替可能なのではないだろうか。(例えば蓮實重彦だったら、この作品が広島へ向かうのは、これがあきらかに小津(『東京物語』)を意識した作品であることから必然的なことなのだ、とか言うかもしれないけど、それだけでは弱いと思う。この映画が問題にしているのは、広島という土地ではなくて、ヒロシマという事件なのだから。)
●今、必要があって米澤穂信をまとめて読んでいて、今日、『さよなら妖精』を読み返して、あらためて大した小説だと思った。この小説におけるユーゴスラヴィアには、必然性があると感じられる。この小説は、実際には九十年代はじめにユーゴスラヴィアで起こったことについては、ほとんど何も描かれてはいない。というか、日本に居て、ユーゴスラヴィアについて描くことなど出来ない、ということこそが描かれている。しかし、たんに歴史的な事件を描くこと(他者にかわって他者について描くこと)の不可能性が描かれるだけではない。この小説の舞台はあくまで九十年代初めの日本であり、ここにいる限り、ユーゴスラヴィアの現状に対して「働きかけ」をすることは不可能である。しかし、それに関係することは全く出来ないにも関わらず、それは同じ世界の上で起こっている現実なのだということを、否定することも出来ない。こことは違う場所があり、こことは違う現実がある。それは知らなければ知らないで済んでしまう。しかし、日本の地方都市に住む高校生でしかない者たちにとっては、働きかけることも関係することも出来ないそのような「現実」が、マーヤが現れることによって、目の前にリアルなものとしてごろっところがり出て来てしまうのだ。マーヤと交流すること、親しくなることで、それは決して遠い世界での夢の出来事ではなく、同じ世界の地平の上で起きているという事実が「実感」される。そして、現実は「私の気持ち(感情)」の外にあり、それとは無関係に進行するのだという事実が残酷に突きつけられる。(墓地を歩いていて、「過去って本当にあった」のだということを生々しく感じるのと同様、マーヤによって、ユーゴスラヴィアが「本当にある」ことを実感させられる。しかし、死者の過去に介入出来ないのと同様に、マーヤの現実にも介入できない。)米澤穂信の小説にはいつも、「知」への意思と同時に、「知」の無力さが描かれる。このような残酷な認識のみをもたらしに来たという意味で、マーヤは「妖精」などではなくむしろ「悪魔」のようでさえある。そして、このような事態を描くこと全体を通して、九十年代はじめのこの場所(日本)を描くことになっている。
(例えば、ギリシャ人であるアンゲロプロスの『ユリシーズの瞳』の主人公はサラエヴォへ行ったし、ほとんどスイス人であるフランス人、ゴダールの『フォーエヴァー・モーツァルト』の登場人物もサラエヴォへ向かおうとしたし、アメリカ人であるソクタグは実際にサラエヴォへ行った。しかし、米澤穂信の主人公は、サラエヴォを目指すことさえ許されない。)