ゴダール『アワーミュージック』と、米澤穂信

ゴダールの『アワーミュージック』を観ると、米澤穂信の『さよなら妖精』でマーヤが話していたMostar(モスタル)にある石の橋が、破壊されてしまったことを知ることが出来、そしてその橋の再建中の姿を見ることが出来る。さらに、この石の橋の残骸を川から引き上げて、全ての破片に番号をふって整理し、保存されていることを知る事も出来る。
《「んー。沢山あります。わたしの街は藤柴と似ていて、街の真ん中を川が一本流れています。なので、橋もいろいろあります。でもユーゴスラヴィヤで一番有名なのはMostarの橋です。毎年、そこからひとが飛び降ります。」》(「さよなら妖精」)
ゴダールの映画でも、勇敢な者がここから飛び降りた、と語られているけど、映画で見るかぎり相当に高いところにかかっている橋で、この上から飛び降りるのは、えびす橋から道頓堀に飛び降りるのとはわけがちがう感じだ。
『アワーミュージック』は改めて観てもとてもうつくしい映画だ。時間の流れを断ち切るように(というより、時間の流れとは無関係に、という感じだろうか)挿入される、車のなかから撮影された夜のサラエヴォの風景ショットの、映画のなかで「位置を持たない」不安定な感じとか素晴らしい。それから、この映画でのオルガのクローズアップは、ドライヤーの(ジャンヌの)それに匹敵するような強さをもつように思われる。(ゴダール風に言えば、無声映画であるドライヤーの『裁かるるジャンヌ』のクローズアップは、言葉=文字と、イメージ=顔との「切り返し」だということになるのだろう。)もともとゴダールの撮る「顔」は素晴らしいのだけど、それは「美しい顔」を「まるで風景のように」捉えている感じなのだが、この映画でのオルガの顔は、(それは同じく非人称的なものではあるのだが)ある意思というか魂というか、そういうものを捉えているようにみえる。
米澤穂信のデビュー作『氷菓』で主人公に行動をうながすのは世界中を旅行(というより放浪)している「姉」の存在であり、姉からの「手紙」で、小説は、インドのペナレスから出された姉から弟への手紙ではじまり、日本からサラエヴォへ向けて出される弟から姉への手紙で終わっている。(90年にデビューした保坂和志が80年代的な作家であるのと同じような意味で、01年にデビューした米澤穂信は90年代的な作家なのだと思う。ライトノベルのレーベルからデビューしたという「貧しさ」も含めて。)
小説(姉の手紙)では、ペナレスは、ここで死ぬと輪廻から解脱できる場所とされていて、死ぬために多くの人が訪れ、ひっきりなしに葬式をやっている所だ、と書かれている。『アワーミュージック』のオルガは、生死に執着しないことでしか自由を得られないと考え、自殺が最大の哲学的な課題だと考えている。そして自殺には二つの問題があり、ひとつは死ぬときの苦痛で、もうひとつが来世(あの世)の問題だと。