『事の次第』

●昼食の後、すこしうつらうつらして夢を見た。ぼくは高校生で、校舎の四階にある教室に用事があって階段を昇っている。軽い急ぎ足で、一段飛ばしくらいの感じで、トントントンと昇っている。これが夢であることは、意識されている。夢なのに、空間をショートカットせずに、ちゃんと階段を昇っているのは、何て律儀なことだろう、と思いながら昇っている。きっちりと四階分の階段を昇って、目当ての教室に着いたのだった。
●ペーター・フィッシュリ、ダヴィッド・ヴァイス『事の次第』(1987年)をDVDで。この映画の存在は知っていたし、アップリンクからビデオが出ていることも知っていて、新宿のツタヤにそのビデオがあることも知っていたのだが、今まで観てはいなくて、DVDが出たのをきっかけに観てみた。
巨大な廃工場のような場所。天井から吊るされた、中身の詰まった大きな黒ビニール袋が回転し、その回転がタイアに触れてタイアがころがり、転がったタイアが立てかけられた板を倒し、倒れた板が傾斜した板に乗っている脚立にぶつかってそれを動かして....、という風に、一種のドミノ倒しのような物と運動の連鎖が延々三十分つづくという映画。NHK教育テレビの「ピタゴラスイッチ」とかいう番組でやっていたのに似ているけど、テレビでは、きれいに作られた工芸品のようなものがきれいに組み立てられて使われていたけど、この映画では、物のサイズがもっと大きいこと、廃材やゴミをそのままざっくりと組み立てた装置が使われていること、化学薬品が多く使われ、火や爆発、破裂などの派手な運動が多用されていること、動きの連鎖が三十分も延々とつづくこと、などが違う。だから運動が、もっとダイナミック、かつ粗っぽい。細かな動きと大きな動きの組み合わせもあり、動きに緩急もタメもある。その物質感は、ボイスなどを連想させるような、ドイツ現代美術っぽい感じだ。
この映画には、看過出来ない二つの弱点がある。それが編集とカメラだ。この映画の面白さの大部分は、こられの運動の連鎖が途切れること無く、誤摩化し無くつづいているという点に賭けられている。にも関わらず、途中にあきらかに編集している点がいくつかあり、そしてカメラのポジションが適当でないため、運動の連鎖の因果関係が掴みづらいところが何カ所かあるのだ。この映画がビデオでなくフィルムで撮られているとしたら、三十分の「事の次第」をワンカットで捉えることはできなくて、途中でフィルムを交換しなければならず、複数のカメラを用意して、動きがタメにはいったところで素早くカメラを換える、ということが必要になるのは仕方がない。しかし嫌な感じなのは、カットが変わるところが、物を妙にアップにしたり、煙がたっていたりするところで行われていたりして、つまりカットが変わるのをごまかしている感じ(目立たないようにしている感じ)があるということだ。劇映画とかでも、擬似的にワンカットにみせるために、カメラが壁を写しているようなところで本当はカットがかわっていたりすることがよくある。(アンゲロプロスの映画でさえ、それはある。)しかし、この映画でのワンカットは、美的、形式的なものではなく、あくまで運動がひとつながりのものであることを示すためにあるのだから、そこを誤摩化しっぽくすることは、映画全体の信頼感がなくなるということだ。このような繋ぎ方をみると、本当は、いくつかの動きをブロックに分けて撮って、それを繋いであたかも連続した動きであるかのように見せているだけなんじゃないの、という風にどうしても疑わしく思えてしまう。あるいは、ここで時間を短縮させているんじゃないの、と疑ってしまう。(そしてそう思ったとたんにこの映画の面白さは半減してしまう。)
しかし、そのような(決して些細なこととは言えない)弱点を差し引いたとしても、この映画は大変に面白かった。この作品は、映画の面白さの最もシンプルなところに触れ、それを掴み出しているように思う。この映画を観てわかるのは、映画の面白さの核心は、決して人間でも物語でもないのだなあ、と言うことだ。物と物とが接触し、動きが伝わり、それが連鎖して、思いもよらないところまで広がってゆく。映画をつくるということはつまり、そのような装置を組み立てて、実際に「作動」させてみるということだ。それは広い意味での物語と言えなくもないけど、物語というより、時間に沿った因果関係の展開といった方が適当だろう。(つまりそこには「幻想」や「メッセージ」が賭けられていない。)一度動きだしたら止まらない因果の連鎖があり、それを基底的に支えている物質がある。物と物とが、擦れ、ぶつかり、それによって物が転がり、倒れ、そして壊れる。なかの液体が溢れてひろがり、粉状のものに染みこみ、発火して炎がたち、煙がたつ。空気が熱せられ、物が炸裂する。物と物との接触が運動を生み、運動が物質の状態を変化させ、状態の変化が別の運動を生み、それがまた別の物との接触をつくりだす。テマティスムとアクションとが物質を媒介にして分ち難く混ざり合う。映画に、登場人物や物語があるのは、たんにその方が観客が「親しみ」をもてるからに過ぎず、本質的に映画を支えているのはそれらのものではない。この、極めてシンプルで貧しくて粗っぽい『事の次第』という映画と最も似ているのは、おそらくVシネマ量産時代の黒沢清の映画だと思う。