グズグズ

●体調がいまいちで、風邪が治ったのか治っていないのかよく分らないグズグズの状態。寝ている程ではないのだけど、動き出すと身体が重く、頭も冴えない。午前中、二時間ほどかけて、全紙大のドローイングを二枚ほど掻く。ドローイングにはかなりの集中力が必要なので、一旦やめて、散歩に出て頭を切り替えてから、午後、再びドローイングをしようと思っていた。しかし表へ出て歩くと身体はだるくて、散歩という気分でもなく、一時間くらいで切り上げて帰って来る。少し、うとうとする。食事の後、改めてドローイングをつづける気にもならず、スケッチブックにクレヨンで、昨日『大いなる遺産』で観たクレメンテ風の落書きをしてみる。けっこういい感じに描ける。この感じでもうちょっと練習したら「売れる」んじゃないかと、ちらっと思う。まあ、やらないけど。作品という意識(抑制)なしに無防備に描いているときに出てくるものと、作品という意識が強く働いている時に出てくるものは、かなり違う。緩い抑制の時に出てくる無防備なものの生々しさは、確かに一瞬、自分自身にも新鮮に思える。しかし、それは多くの場合、長い時間に耐えない。(ごく稀に、長い時間に耐え得るものも出てくることがあるけど。)とりあえず今は、より強い緊張と抑制と統制のもとで描く時の方が、実はずっと制御しがたい、予測しがたい、深くから汲み出してくるようなものが出てくるんじゃないかと思っている。しかしそれが「システム」になってしまってはダメなのだ。(一筆、一筆の、その都度での関係や進展についてはきわめて意識的、抑制的だが、画面全体の構想は全くもたない、というのが、今のぼくのドローイングの描き方だ。)
さらに、マティスのタブローやミケランジェロの彫刻の図版を見ながら、人体を描いてみる。模写じゃなくて、作品として一度解釈された人体を頼りにして、それを描くことによって自分なりに人体を捉える助けにしようとするもの。(セザンヌが鉛筆のたどたどして線でドラクロアの人物を描いたりしているのと同じ感じだ。)そろそろ本気で、(このように他人の作品に頼ったものではなく)人体を描くことを考えてもよいのかもしれないと、徐々に思いはじめている。