VOCA展、田中功起ショー、ベケットラジオ『残り火』、『カスカンド』

●体調は良なくいが、出かけてみることにした。上野の森美術館VOCA展田中功起ショー、にしすがも創造舎で、ベケットラジオ『残り火』(演出・阿部初美)『カスカンド』(演出・岡田利規)。上野公園の桜はほぼ満開で、公園をすこし歩いた。
VOCA展は毎年まったくの低調で、よくもこんなに酷い作品ばかりをあつめられるものだとしか思えないのだが、今年はそれほど酷くもなかった。とはいえ、勘弁してくれ、恥ずかしい、という程酷くなくて、一応見栄えだけはなんとなく保っているということで、ただ何となく見せ方が上手くなっているというだけで、特に気になる作品もなく、一度も立ち止まることなく、ゆっくりと歩いて会場を一回りして、特にもう一度みたい作品もないので、そのまま会場を後にした。それにしても、特にこれといって良い作品がないからといって、よりによってあの作品に大賞を与えてしまう審査員の先生方を、ぼくは心の底から「浅いなあ」と思う。
田中功起は実ははじめて観たのだけど、さすがに面白かった。映像作品というのは固有の時間をもち、ある特定の時間を観客に対して強引に「つき合わせる」ことになる。これを、映画館のような、はじめから等方向に向いた椅子にすわって、さあ今からはじめますよ、というかけ声のもとにみんなで一緒に正面のスクリーンを見る、というのではなく、雑然としたギャラリーの空間のなかに置かれたモニターで見るというのは、かなり困難なことだ。ぼくは、「映像は自らが動くことで観客の動きを止める」といつも思うのだが、映像の時間を体験するためには、それに集中しやすい環境と、ある程度に身体を縛る強制力のある場が必要となる。(逆に、絵画を映画のようにして観たら、ちっとも面白くないだろう。絵画を見るためには、雑然とした空間のなかを、自由に動き回ることが出来、関心を散らすことの出来る状態が必要なのだ。)だからビデオ作品の多くは、その映像を、環境をかたちづくる一つのパーツとして扱うビデオインスタレーションのようなものになるか、あるいは、物語性によって観客の目を一定時間惹き付けつづけようとするかになるだろう。(しかし後者であれば、ギャラリーではなく、映画館のようなスクリーンで上映した方がよいだろう。)
しかし、田中功起の作品は、観客の時間を「つき合わせる」ことをしない。その作品は、ほぼ一瞬で解決が与えられる。ネタを振ってからオチで落とすという最低限の物語の段取りも必要なく、ただオチだけで成り立っている。一瞬で解決が与えられる「オチ」みのが、次々と現れるその画面に、観客は逆説的に、長い時間釘付けになってしまう。どこから観始めて、どこで観終わってもよく、そして一瞬で解決が与えられるから、いつそのモニターの前から立ち去ってもかまわないという自由さと、次々と繰り出されるネタの(軽い暴力性を伴った)新鮮さとで、気がつくと、ある一定の時間その前で過ごしていたことに「後から」気付くのだ。一個一個のネタは、時間をほとんど必要としないものだが、それらのネタの連なりが一定の心地よいリズムをつくっていることも、思わず見入ってしまう一因だろう。(編集がとても巧みなのだ。)しかし観終わった後は、妙に暴力的で荒んだ印象以外は、何ものこらないのだけど。
反復を認識することと、反復を体験することとは違う。例えば、ウォーホルのキャンベルのスープ缶の反復は、一目でその反復を理解出来るが、改めてそのスープ缶を一個一個観てみようとはあまり思わない。しかし、ミニマルな要素が反復する音楽を聴く時、その反復を結果として最後まで聴いたとしたなら、その反復を体験したことになろう。そしてそのためには、その反復される単位となるものが、まず最初に人に与える新鮮さを持つことと、反復に耐え得るだけの強さをもち、反復される度に新たな新鮮さとともに経験される必要があろう。そしてさらに、その反復のあらわれるリズムそのものが、魅力的である必要がある。田中功起の作品は、その反復の単位を、まさに一発芸的な言い切りの強さに置くことで、反復を体験することを可能にしている。ただ、これらの作品は、あまりに完成され、完結し過ぎているので、これ以上の展開は考えにくいと思う。
田中功起の作品を観ていて、黒沢清の二時間の映画を、五分くらいに要約すると結局こうなるのではないか、と、ちらっと思った。まあ、要約し過ぎだけど。
●『残り火』は、ベケットがラジオドラマとして書いたものを上演という形にするために、いわゆる録音の「舞台裏」みたいなものをそのまま舞台にのせるということだと思う。いや、録音ではなく、生放送の舞台裏と言うべきかもしれない。それはまるで、オーソン・ウェルズがやった「火星人来襲」の舞台裏のようで、台詞も音楽も効果音も、同時にその場で出される。そのようにして空間的に開くことで、ある意味で退屈でもあるベケットのテキストを、上演として面白く(親切に)みせることには成功していたと思う。でも、それ以上のものがあるのかと言えば、あるとは思えなかった。勿論、たんなる舞台裏を見せているというだけではなく、その舞台上での配置が、テキストの解釈となっていたりはするのだけど。
●『カスカンド』。これは辛かった。一時間の上演を観ることが、そのまま身体的な試練のように思えた。詰まらなかったから辛かったのではなく、面白かったからこそ、辛かったのだ。演出の岡田氏はリーフレットに次のように書いている。《ほとんどたった一つのイメージだけで上演時間を過ごすこと。だから稽古は耐久力を付ける筋トレみたいな感じだった。一時間鉄棒にぶら下がっていられるか ?みたいな。》これは、俳優に対する要求が書かれたものだが、それはそのまま、観客に対する要求でもあるように思えた。最初に、ある一つのイメージがとても強く示され、そのイメージが、ほとんどそのまま動くことなく、ほぼ同一の強度で、一時間ほど持続する。さあ、お前はこれに耐えられるのか、と突きつけられているかのようだ。このイメージが、つまらないものだったり、弱いものだったりすれば、それをぼんやりと眺めつつも他のことを考えていたり、もしくは眠ってしまってもよいわけだが、異様に明確で強い、しかし凝り固まって動く気配すらないイメージの現前は、そちらの方に強制的に目を釘付けにさせたまま、こちらの動きまで奪ってしまって、眠りに逃げることすら許されない。この辛さは、田中功起の作品のもつ「観客への(観客の立場にたった)親切さ」とは対極にある。動きを奪われた状態で舞台上を凝視しているうちに、今、自分が見ているものが、舞台の上で実際に起きていることなのか、それとも、目を開けたまま眠ってしまって見ている夢なのか、よく分らなくなってくる。内心、凄く辛くて、はやく上演が終わらないかとすら思いつつ、その辛さの場所に強制的に留め置かれ、この辛さこそが、ここで今、自分の身体に与えられている試練こそが、ベケットの作品のもつ「意味」そのものなのだと、体感されるのだ。今、振り返ってみても、あそこで自分が見たものは一体何だったのだろうか、というような、明解ですらある異様さの印象のみが残っている。何度も繰り返して観たいとはとても思えないような、とんでもないものを観せられた感じだ。