「関わりを解剖する二つの作品」(振付・手塚夏子)

門前仲町の門仲天井ホールで、「関わりを解剖する二つの作品」(振付・手塚夏子)を観る。四十分程度の二つの作品「サンプル」(出演・山縣太一 音楽・スズキクリ)と「プライベートトレース」(出演・手塚夏子 音楽スズキクリ)。
「サンプル」は、舞台中央の向かってやや右あたりに、頭がスピーカーになっている実物大の人形が置かれ、向かって右の椅子に座る山縣太一と、このスピーカー男とが話し出すところからはじまる。「今日こんな天気で残念だねえ」「そうっすねえ」みたいに、凄く普通の会話がなされる。(この会話は台本があるのか即興なのか分らない。)山縣太一は、この会話をつづけると同時に、日常的な仕草からサンプリングされたような動きをしている。しばらくそれがつづいた後、手塚夏子によって「背中の一番尖ったところが赤くなる」「その赤が背中全体にひろがる」「みぞおちからお湯が少しずつ入ってくる」「そのお湯がゆっくりと下腹の方へ移動する」とかいうような言葉が読み上げられる。この言葉は、パフォーマーである山縣太一に対して、そのようにイメージしろという指令であり、同時に観客に対して、彼は今そのようなイメージしている状態だということを説明する。(そして観客であるぼくも、少しそのイメージに染まる。)会話すること、動くこと、イメージすること、という三つのことを同時に要求されるパフォーマーは、次第に動きが少なくなり、会話も途切れがちになり、主にイメージすることに比重を置くようになってゆくらしい。この指令の言葉が、非常に魅力的な動きをする俳優、山縣太一の動きを封じる呪文であるかのごとく作用する。徐々にイメージすることに比重をかけるようになるパフォーマーの身体は、外からみていると、先輩と話をしている間にだんだん体調が悪くなってきて、この話はさっさと打ち切りにして帰りたいのだけど、先輩の方はその気配に気付きもしないので、それを言い出しにくくてどうしようかと思っている、という状態にある人のように見える。観客が、パフォーマーが今「みぞおちから入って下腹に移動したお湯が沸騰している」状態をイメージしているのだと知ることが出来るのは外から与えられた言葉であって、パフォーマーの身体によってではない。そして、言葉によって与えられたイメージの変化が、具体的にパフォーマーの身体的な気配に、明確に察知できるほどの変化をもたらしているようにはあまりみえなかった。(次第に体調が悪くなってゆくように見えたというのはおそらく、身体が外向的な状態から、イメージすることに比重を置くことで、内向的な状態に移行したからなのかも知れない。体調が悪くなった人は、自らの苦痛に耐えることで精一杯となるので、身体を外向的な状態に保てなくて、まさに自身のなかに潜り込むようにみえる。)
「プライベートトレース」。手塚夏子が出て来て、舞台の奥へしゃがんだ瞬間から、その身体のありようが山縣太一とはまったく異なることがみてとれた。ここでパフォーマーは、身体が外向的であったり内向的であったりすることがほとんど問題にならないような感じで、しゃがんでいた。それは、内向することがそのまま外向へと繋がっているような感じとでも言えばよいのだろうか。「サンプル」でも同じだったのだが、ここからはじまるという合図のように、軽く首を縦に振る動作がなされる。なにかがむっくりと起き上がろうとする、というか(実際にはパフォーマンス中はほとんど床か椅子に尻をつけたままで、決して「起き上がらない」のだが)、眠っていたものが徐々に覚めてくるような滑り出し。そのような動きがしばらくつづいた後、唐突にパフォーマーの口から声が発せられる。人が声を発するという行為に対する新鮮な驚きのようなものを感じる。それは、それ以前までの動きとは異なる質の動きであり、おそらく筋肉を瞬間的に強く伸縮させる意思的であり痙攣的でもあるような動きで、ある亀裂を場にはしらせる力をもつ。それは確か「しん」と言ったように聞こえる。それはたんなる発声のようであり、しかし言葉へと向かうものでもある。「しん」「しん」と、声を発するという行為を自ら確かめるように何度か反復した後、「しん」「しん」「ど」「しん」「ど」「い」、という風に音が切れ切れに足され、「しんどい」と発語される。ここで、言葉がまず声であり、発声するという筋肉の運動としてあることが強く感じられる。ここで「しんどい」という発語は、誰か他者に向かってなされたというよりも、自身の身体そのものに向かっているように感じられた。
それまで、床に尻をつけてじかにしゃがんでいたのが、椅子に座った状態の動きとなる。それまでは、自らの身体そのものを対象としていたような動きだったのが、椅子に座ってからは、明らかに、視線の先に誰かがいるということが想定された動きのようになる。それは椅子に座った状態からやや下に向けられた視線で示されている。ここでも、発声することと身体を動かすこと、あるいは発声することと発語することとの、あわいを探るような感じで、動きや発声が、その行為そのものを吟味するように何度も丁寧に反復され、反復されつつ少しずつ展開されてゆく。ここで切れ切れに発せられる言葉は(確か)「誰も見ていないから大丈夫だよ」というようなもので、「誰か」に向けられている言葉だ。ここでも、人の身体が声を発することの新鮮な(やや暴力的ですらある)衝撃のようなものが持続していると思われた。動きは、あくまで椅子に尻をつけた状態が保たれて制約されている。この制約のなかで次第に動きは大きなものとなり、その大きな動きのなかで、発声(発語)そのものが、身体的な行為であることがはっきりと感じられる。
そして最後に、プロジェクターのよって映し出される映像が、これまで彼女が語りかけていた相手が、乳幼児と言えるくらいの年齢の、彼女自身の子供(と、寝そべる夫)であったことを知らせる。とてもうつくしい終わり方。