デッサン会の三回目

●デッサン会の三回目。昨日から腹の調子が悪くて、スポーツドリンクとプリンくらいしか口にしてなくて、ふらふらだったけど出掛けた。
ふらふらな体には、絵を描く前に荷物が重いのがつらい。B2(515×728ミリ)の画用紙を使って描いているので、それより大きめのp30の木製パネル(910×652ミリ)をカルトン代わりに持って行くのだが、これを画材屋でもらう大きいビニール袋に入れてもつ時、肘をずっと曲げたまま持っていないと、下が地面について擦れてしまう。持ち手を腰のあたりまで上げて持たなければならないのだった。かなり重いものでも、腕を伸ばしたままぶら下げるように持てれば楽なのだけど、ずっと肘をL字に曲げて、筋トレしてるみたいな格好で持ち続けるのはかったるい。しかも雨なので、もう片方の手は傘をもっている。部屋から駅までの12、3分、駅から会場までの15分を、ずっと肘をL字のままでパネルと紙と画材一式の入った袋を持って歩いていると、筋肉がプルプルしてくるのだった。(こういう大きいパネルを持ち歩くための、肩から掛けられる袋が売っているはずなのだけど、受験生の時以来、大きなパネルを持って外へ出ることなんかしたことないから、持っていないのだった。)
今日は雨なので、出掛ける前、画用紙を二重にビニール袋に入れて濡れないようにした。しかし、B2のサイズの画用紙は、東京都指定のゴミ袋の一番大きいやつにも入らないので、この紙が入る袋を探さなければならないのだった。幸い、画材屋でキャンバスを買った時の袋があったので、それに入れた。
頭をしゃきっとさせるために、駅前のコンビニでチョコレートを買って、電車の待ち時間に、ひとかけら、ふたかけら、食べた。
●裸婦のクロッキーは本当に面白い。出来れば、毎日でもやりたいくらいだ。学生の頃は、たんに括弧付きの「お勉強」としてしか考えてなかったから、全然面白くなかったし、多分、それをやる意味も分かってなかった。線が空間をたちあげ、動かすということと、線が形態に絡み、形態を浮かび上がらせることとの密接な関連を、線をひきながら実感することが出来る。形態(事物)と空間は、別々のものでは決してなくて、空間がたちあがることによって形態(あるいはボリューム)が掴まれ、形態が掴まれることによって空間がたちあがる。(セザンヌがタブローで、輪郭線を使わずにタッチの積み重ねだけで形態を掴むことと、マティスがドローイングで、色彩も濃淡も用いずに線だけでボリュームを掴むこととは、決して別のことではない。どちらも、事物と空間とを同時に掴むということなのだと思う。)重要なのは作品を「つくる」ことよりも、絵を「描く」ということで、「描く」ことで掴まれ、たちあがり、動いてゆくものによって、「作品」が組み立てられてゆくことなのだと思う。それが、最もシンプルに、シンプルであるからこそ誤摩化しようもなくあらわれるのが、クロッキーなのだ。プランもコンセプトも、目の前で動いているモデルと、自分が画面に実際にひいてしまった線そものの前に、もろくも崩れさってしまう。
クロッキーをすることはとても恥ずかしい。そこではすべてがあらわになってしまうからだ。その人の才能も技術も運動神経も、その人に蓄えられている様々な含みや厚みも、その日の調子も、何が見えていて何が見えていないかもあらわになってしまうし、それを尤もらしい理屈で取り繕ったり出来ない。自分はこんだけのもんなんだ、と開き直らなければやってられない。でもそこではじめて、「描く」というとの意味が掴まれるのではないか。「描く」ことに賭けることが出来る者だけが画家なのだ。
えらそうなことを言っても、ぼくが今やってることは、本当に普通の、ベタな裸婦クロッキーに過ぎないのだった。それに、そんなにえらそうに言うほど(これを堂々と「作品」として提示出来るほど)上手いわけでもない。それでも、今していることが、自分にとってとても重要なことなのだという手応えはある。それは、どれだけ無防備に「描く」ことに賭けられるかということのレッスンなのだと思う。
●今日のクロッキー(http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/d070506.html)