ちょっと、昨日と関係したこと

(ちょっと、昨日と関係したこと)
●武術などの訓練で、自分ひとりで型をやっているよりも、自分とは違う能力や身体を持った他人と組み合って、実戦的な訓練をする方が、より開かれていて、自分の欠点(盲点)なども見えやすく、質的な変化を得やすいのではないかと普通思うのだが、甲野善紀によると、そうではないらしい。
《防具をつけて打合っていれば、どんな者でも自然と反射機能も鍛えられ、数をこなせば、ある程度は間に合う動きが身についてきます。これはちょうど、自転車に乗れない者でもにかく練習の数をこなし、時間をかけていれば、いつかは乗れるようになることと似ています。
しかし、そうした日常の動きのレベルの反射機能を、ただ、模擬実戦形態の環境のなかでそのまま研き上げてゆこうとする稽古ではやがて、壁に突き当たります。なぜかというと、防具竹刀による打合稽古は、入門してすぐの初心者であっても面白く、稽古するのに飽きが来にくい、というメリットがありますが、その一面、とにかく、いま自分が持っている能力をなんとか、やりくりして間に合わせようということに必死になってしまい、動きの質を変えるという、根本的な課題へ目がいかなくなってしまうからです。》
《武の技を練る稽古が、剣道における「地稽古」、柔道における「乱取り」という、模擬実戦の形態による稽古法では、慣れの延長線上である、ソフト面の発達以上のものが容易に得がたいことは、すでに述べたとおりですが、型稽古もたんに手順をおぼえるだけの形式に堕してしまったら、そこで養成される伎倆は、司馬氏が『北斗の人』のなかで書かれたように、「地稽古」「乱取り」によって得られる技術以下のものになってしまいます。つまり、型稽古は、それを行うものにとって、模擬実戦の稽古法にくらべ、遥かに高いレベルのセンスを要求されるのです。正直に申し上げれば、私は、そのことを近年になってようやく身にしみて感じるようになりました。そうなってから、あらためて、型の見直しにはいっています。》(『剣の思想』p68-69)
●ここでは単純に、模擬実戦の稽古にくらべて、型の優位が言われているわけではない。むしろ、型によって稽古することの困難さこそが言われているのだが、ぼくがここで気にしているのは、一見、異なる身体と対するはずの模擬実戦が、実は「慣れ」を生みやすいという指摘だ。甲野氏は決してそういう言い方はしていないのだが、模擬実戦の稽古では、他者と対するがゆえに、その他者との(対人)関係による「慣れ」が、ある特定のフレームを無意識のうちにつくりあげて(固定して)しまう、ということもあるのではないか。模擬実戦が「模擬」である限り、そこにはどうしても、共有された文脈としての「ゲームの規則」が相手との関係によって成り立ってしまい、その中での「反射機能」の向上にしか繋がらない(質的な変換に繋がりにくい)、ということなのではないだろうか。甲野氏が、「日常の動きのレベルでの反射機能」とか「慣れの延長線上」とかいう言葉で示そうとしているものには、このような意味が含まれているのではないだろうか。
それを切断するために「型」が必要なのだ、となれば分かりやすいのだが、甲野氏はそうは言わなくて、むしろ《この何年か私は型らしい型で稽古することはほとんどありません。》と書く。ここで必要なのは、型というよりも「型の見直し」なのだろう。《剣術の型を運用する際の体捌きも激変し、外見的には、従来の型に似ていても、内部は大きく変わりました。》
●甲野氏は次のようにも書く。ここで書かれる「自分の感覚の不確かさ」ということが、ぼくには最も重要なことだと思われる。
《私はとにかく繰り返し稽古して身につける基本の動き、というものに非常に懐疑的なのです。それでも学ぶ人は稽古しないわけにはいきません。ですから、私は稽古する時は、「これをやればいいのだ」などと夢にも安心して行ったりせず、常に自分の感覚の不確かさを自覚して、「それでもやらずにおれないからやる」といった気持ちで取り組むべきだと思います。》(『剣の思想』p191)