●昨日につづいて、甲野善紀の引用。メモ。(『剣の思想』より)
《刀法には、どうあっても捌かなければならない敵手というものがいる。この敵手は、できる限りこちらの意表に出ようとします。こちらとは異なる原則を持ち、それによって絶えず付け入ろうとしてくる。脅し、すかし、厭がらせ、洗脳行為などはお手のもの、といった他人が兵法の相手である。(略)
はっきりしていることは、〈流祖の時代〉の刀法は、予測を許さない禍々しい敵手との百年の葛藤の末に生み出されたということです。そうした敵手を背腹に受け、脅しも、すかしも、厭がらせもしないものが、上泉伊勢守の刀法であった。彼の刀法がこの時代を制したことは、文化上のひとつの奇跡にほかなりません。制したとは、単にたくさん勝ったということではなく、勝つことの意味を変え、敵手を説得する「太刀(かた)」の価値を創造し、下克上を超える晴れやかな生の肯定をもたらしたということです。私が稽古する刀法は、このような一人の人物を明確にその起源に持っています。(略)
私がそうしている限り、同じことをする物好きはきっと現れてくる。そのあとも、そのあとも現れてくる。歴史のなかには、そういう奇妙があります。新陰流刀法が、この現代世界のなかで何の役に立つのか、私にはよくわかりません。ただひとつ言えることは、私はこの刀法を反復、稽古し続けながら、常にあくまでも、身ひとつのささやかな覚醒を守っているのです。時代が生むどのような詐欺も熱狂も、この刀法の一人の稽古者をも巻き込むことはできない、そういうことであらねばと、密かに意思しているのです。下克上を超えた生の肯定は、そうした覚醒者たちの自立した稽古を呼び寄せつづけるでしょう。この呼びかけが、人間を救わないはずはありません。こんなことを言うのは、身の程知らずの大言壮語でしょうか。しかし、身の程を知っていては、あなたの誘いにのって、始めからこういう本を書けはしなかったのですから、ここは笑って御海容下さい。》(p215-216)