『パプリカ』(今敏)をDVDで

●『パプリカ』(今敏)をDVDで。今敏は初めて観た。いままで、なんとなく好きではなさそうな感じで敬遠していたのだが、その予感は当たっていた。これを観ると、例えば神山健治の『攻殻機動隊S. A. C Solid State Society』が、いかに考え抜かれてつくられた優れた作品であるかということが、逆によく分る。『パプリカ』はむしろ、『Solid State Society』に対する『イノセンス』のようなダメさなのだ。(しかし、『パプリカ』は『イノセンス』よりさらにダメだと思う。)これでは、いくら技術的に凄くても(凄いからこそなおさら)退屈なだけだ。この映画の夢の描写を見ていると、人間の想像力の根本的な貧困さばかりが、強く感じられる。
ぼくにとっては、例えば『マインドゲーム』、『イノセンス』、『パプリカ』ははっきりとダメな作品で、アニメがここに陥ってはいけない(ここに陥ると退屈でしかなくなる)という隘路に見事に陥ってしまっている作品のように思われる。それに対し、そのような隘路を賢明にも逃れているのが、例えば『少女革命ウテナ』(http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/yo.32.html#Anchor1863148)、『フリクリ』、『攻殻機動隊S. A. C Solid State Society』といった作品であるように思う。(ちょっと前にやや否定的に言及した『時をかける少女』、『雲のむこう、約束の場所』などは、その中間の微妙なあたりにある。)そしてその違いは、やはり、絵でしかない(つまり、描けさえすればどのようにでも描けてしまう)アニメが、現実とどう関係するか、という点にあるように思われる。
第一に設定の次元。『ウテナ』などは、マニアックなアニメ絵の美少女と、宝塚とアングラ演劇とを混ぜ合わせたような、壮絶な悪趣味の世界で、いわゆるリアリズム的なリアリティとは完全に切り離されている全くの書き割り的な架空の世界だ。しかし、中途半端なリアリティときっぱり縁を切っているからこそ、そこに独自の現実との関係が生まれているように思われる。その逆に、『攻殻機動隊』の世界では、公安九課という架空の組織を、現実的な設定のなかで、どのように位置づければ適当であるのかという点が、徹底して考えられている。しかし、『パプリカ』の世界は、全くの虚構でもないし、しかしリアルな現実の地続きとしてみると、あまり嘘くさい。ここで物語が「夢(無意識)」という領域と深く関わっているからこそなおそら、覚醒された側(現実の側)のリアリティの設定が重要になるはずだと思う。
次に、単純に、人間を絵で描くことの難しさ、ということがある。人は、簡単な記号的な線の集まりでも、そこに人のような表情や動きを感じ取ることが出来る。しかし一方、正確に、精密に人を描き込めば、その描かれた人物がリアルになるというわけでもない。そもそも、膨大な枚数の絵を必要とするアニメでは、精密に描くといっても限界があり、どのみち「リアルっぽい絵」という(お約束の)程度に納まるしかない。(だからむしろ、アニメのキャラクターはリアルさよりも「絵」としての魅力を優先した方がよいのではないかと、ぼくは思う。)この作品のキャラクターは、どの程度のリアルさに着地させるのかという設定がいかにも中途半端だと思う。やたらと巨漢の太った科学者や、やたらと小さくて顔のでかい年老いた科学者のキャラクターは、中途半端にリアルで、中途半端にデフォルメされ、絵としてのバランスが悪い。それに、男性のキャラクターが皆、醜い点を(中途半端に)デフォルメされた奇形的なバランスなのに対し、女性キャラクターが類型的な(すっきりしたバランスの)美人として設定されているのも、なんか嫌な感じだ。
物語の次元。多くの人の「夢」が繋がって、それが現実の方へと突出してきてしまうというような物語なのにも関わらず、結局それが一人の「黒幕」へと収斂されてゆき、その黒幕を倒してめでたしめでたしでは、そもそもこの設定の面白さの意味がなくなってしまう。さらに、天才対凡人、閉ざされた同性愛に対して、開かれた異性愛みたいな図式は、あまりにお粗末だと思う。物語の本線に絡んで来る刑事のトラウマの話も、おっさんのつまらない昔話を聞かされているようだ。インターネットと夢との繋がり方がはっきりせずに、曖昧な感じで誤摩化されているのにも納得がいかない。(このあたりも、考え抜かれた『攻殻機動隊』と比べるとお粗末さが分る。)
あと、これは根本的な否定になってしまうのだけど、アニメーションが「夢」を扱うことの危険さ、というのがあると思う。もともとアニメは「絵」であって、現実的な基盤をもたない。描くことさえ出来れば、どのようにも出来てしまう。このことは一見、『パプリカ』のような物語と親和性があるようにもみえる。しかし、はじめから「どのようにも出来る」ことが分っているアニメで、夢と現実との閾が抜けてしまうような話をやっても、それはまさに全てが「夢」の中(嘘)でしかないような、リアリティのなさに陥ってしまう。(これは『マインドゲーム』などでもそうなのだけど)だから、どんなに派手な細部が、めまぐるしく、華麗に展開して、それを幾重に反転してみせようとも、それらは結局想像的なものの戯れでしかなく、それが何かしらのリアルなものと結びついていなければ、ただ退屈なだけになってしまう。(そもそも、虚と実の「実」がないから、反転や底抜けが成り立たない。)この映画で夢をリアルに結びつけるものと言えば、結局は、人形やブリキのオモチャや遊園地やお祭りというノスタルジックなものであり、それ(捨てられた人形や廃墟となった遊園地やお祭り的狂騒)への恐怖の感情でしかない。(例えば『フリクリ』においては、そのあまりに拡散的でとりとめのない逸脱は、少年の成長、あるいは性欲という次元で現実的身体との繋がりを保ち、その想像的な戯れの世界は、あからさまな性的な比喩に埋め尽くされることで、密度を得ている。)