●『悪魔とダニエル・ジョンストン』(ジェフ・フォイヤージーグ)をDVDで。ぼくはこの人の音楽にも絵画(絵画は落書きにしかみえない)にも興味はないしよく知らない。ただ、「伝説のミュージシャン」ではなくても、アメリカにはこういうような人はけっこう多いんじゃないだろうか。この人は、自分を取り囲む環境(家族、キリスト教原理主義、アメリカの大衆文化)に拘束され、その耐え難さから逃れようともがきつつも、結局は、それら彼を拘束するものたちに守られていなければ生きることが出来ない。彼の両親は頑固な保守主義者(キリスト教原理主義者)で、そのことによって彼は窒息させられるのだが、そのような価値観を持った両親だからこそ、息子に殺されそうになったにもかかわらず、そのような息子を徹底して擁護し保護しようとする。結局、彼の音楽もアートも、彼をそのような拘束し保護もする環境からの脱出(切断)の役には立たず、彼は(彼を最も強く拘束していたはずの)両親の保護下で音楽や絵をつづける、歳くった子供みたいになってしまう。(自宅の地下室という空間が妙にリアルだ。)アメリカの大衆文化(彼の「教養」は、キリスト教の他はせいぜいビートルズとアメリカンコミックくらいのもので、ビーチボーイズさえ知らなかった)は、彼を牢獄から解放させる力とは成り得なかったという、残酷な事実が示されている。
この映画を観ていて感じたのは、(いわゆる「アート的」、あるいは「サブカル的」な)大衆文化の「弱さ」というようなことで、このような「アート的(サブカル的)」なものは(煽るだけ煽って)結局人を解放したりしないものかもしれないという、とても苦い感触だった。この映画を観ただけで、そこまで言い切ってしまって良いのかどうかという躊躇もあるけど。この映画で観る限り、「アート的なもの」は、「だめなぼく」が「だめなぼく」として生きてゆくことを支えるものになっているとは、あまり思えなかった。(アート的なものは、「だめなぼく」を「だめなぼく」として肯定するのではなく、「イノセンス」や「天才」みたいな粉飾によって持ち上げて「売ろう」とする。彼のような人を「伝説」とすることで、音楽業界やアート業界はお金儲けをする。彼があこがれたアートワールドとは、結局そういうものだった。そして彼自身、このような「持ち上げ(上げ底)」に誘惑されることで、アート的なものに惹かれた。そして「アート的なもの」という制度は今後も、彼のような若者を生産しつづけるだろう、と思うとやりきれない気持ちにもなる。ぼくのこういう感想は、ちょっと「過剰反応」なのかもしれないけど。)
この映画で証言している様々な関係者のなかで、最も興味深かったのは、まだ無名時代に、彼が音楽で生活出来るように楽曲を管理する会社をつくり、その後もマネージャーとして彼をサポートしつづけた男性だった。この男は、ダニエルに手ひどい裏切りを受けて絶縁した後にも、彼の絵を自分で買い集めては画廊に貸し出したりしてプロモーションをつづけてたそうだし、現在でも、彼の初期の宅録テープをダビングして販売したりしているという。ダニエルを、環境という牢獄やキリスト教的なオプセッションから解放し得るのは、両親でも、大学時代の片思いの彼女などでもなく、このような人物なのだと思うのだけど。
●この映画では、「現在のダニエル」がなかなか出てこない。まるで、既に亡くなってしまったミュージシャンのドキュメンタリーであるかのように、関係者の証言と、過去に撮られた映像や録音ばかりで構成されている。ダニエルの語りや姿は、この映画のためのものではなく、既に過去に録音され撮影されていた「資料」を構成してつくられている。(唯一、彼の子供の頃の部屋の散らかり方が、現在の彼の部屋と同じだということが示される時、ほんの僅か、現在の彼のピアノを弾く姿が示される。)そして、映画の語る物語が「現在」に追いついた時にようやく、「現在のダニエル」がぬっと姿をあらわす。いままでさんざん噂で聞かされていた人物に、ここにきてようやく出会えた、という感じがする。このような「本人に過去を物語らせない」ような構成は、ちょっと面白いと思った。この映画は、撮影対象と長くつき合い、撮影対象をじっくりと撮影するという映画ではなく、撮影対象の「現在」から、考古学的な調査のように過去を発掘し、遡行してゆくようにつくられた作品だろう。しかし、映画の物語としては、それとは逆に、過去から現在へと向かって流れる。(これは本人が過去のことを忘れてしまっているか、過去を語れるような状態ではない、ということなのかも知れないけど。)だがそもそも、このような「発掘」が可能だったのも、ダニエルが録音し、撮影した膨大なテープやフィルムを、「両親」がちゃんと保存していたからであるはずだ。(ここで再び、檻でもあり楽園でもある彼の散らかった地下室のイメージが浮かぶ。)結局、「ダニエルの現在」は、(彼を生み、病気にさせ、そんな彼を最後まで保護しつづけようとする)保守的な両親の存在と切り離せないのだった。だからこの映画で示されるのは「ダニエルの物語」ではなく、「ダニエルの現在(をかたちづくる「環境」)」であって、それを浮かび上がらせるためにこそ、過去が構成されているということかもしれない。