浅見貴子展の作品を観ながら考えた

●昨日、浅見貴子展の作品を観ながら、次のようなことを考えた。
●作家のスタイルというのは、作家が作品をつくるために世界に向かう時の、身構える姿勢というか、世界に触れる技術のあり様というか、作業をすすめてゆく段取りの組み方のようなもののことで、つまりある作家が、どうしても必然的に「そうせざるを得ない」何かのことで、それは決して「出来上がった作品」の上にみられる形の特徴(の反復性)のことではない。だから作家にとって、自らのスタイルを意識的に選択することなどできず、スタイルはほとんど運命のように、その作家を規定している。あるいは、形式とは、既に出来上がった作品を、事後的に分析することによって抽出され、認識される形であって、それは作品をつくりつつある最中で作動している認識とは質的に異なるもので、そこで得られた形式的認識が、新たな作品をつくる時の助けにはあまりならない。
●だから、ある作家が、同じようなスタイルの作品をつくりつづけのるは、そのスタイルをキャラクターのように商標登録し、その所有権を主張し、既得権を得ようとするためではない。その作家が自らの身体を通して世界とかかわろうとするときに、どうしても避けて通れないある道筋のようなものとして、スタイルはある。必然的にある道筋を通らなければならないからこそ、結果としても、どこか似たような形となって出来上がるということだ。それは、ある特定の「結果」を得るために逆算された道筋ではなく、リアルな現実に対して、それに対処するときにとり得るやり方が、自らの限定された身体においては、数限りなくあるわけではない、ということによって、「そこを通るしかない」というように決まるものだろう。だからスタイルとは、同一性を主張するような能動的なものではなく、自身の限定性を受け入れるという受動性によってうまれる。
●スタイルが、同一性によってではなく、限定性によって生じるということは、とても重要なことと思われる。これによってはじめて、同じようなスタイルの作品を、しかし、その都度まったく新しいものとして作り出し、それを持続することが出来る。そのような、同一性を担保としない反復によってこそ、何がしかの探求の積み重ねが可能になる。そこでは、積分(パラノ)対微分(スキゾ)という対立は無効になる。(常に「新しいもの」を求めなければ気が済まないということは、自身の限定性を受け入れることの出来ない(全能感を捨て切れない)ということで、それでは子供のままなのだ、ということではないだろうか。)