柴崎友香『主題歌』を読んだ

●朝早く、午前五時半くらいに目が覚める。ぼーっとした頭が起きがけのコーヒーで徐々にはっきりしてくると、描けそうな「感じ」がふわっと浮かんでくる。コーヒーを飲み終えると朝食も採らずにそのままタブローの制作をはじめ、午前九時頃までに、小品を二点、一気に完成させる。ああ、今日はとても良い感じの滑り出しだなあと思いつつ、朝風呂を浴びる。外は曇ってはいるが雨は降ってなくて、天気予報によると午後から降る感じみたいだったので、降り出す前に、制作中に足りないと気付いた画材を買い足しに行くことにする。長風呂の予定は中断。帰り、駅から部屋までの間で多少パラパラときたが、本格的に降られる前に、ギリギリで部屋まで間に合った。雨の入らない軒先で、雨のにおいを感じながら木枠を組み、麻布を張って、キャンバスを数枚組み立てる。まだ正午を少しまわったくらいで、午前中に、一日分以上の仕事をしてしまったような感じだった。
●「群像」6月号に載っている柴崎友香『主題歌』を読んだ。柴崎友香の小説はいつも書き出しがとても鮮やかで、途中まではその鮮やかさにのせられてすんなり連れて行かれる感じなのだが、この小説は冒頭がいまひとつで、その後もしばらくはちょっともたもた冴えない感じで、この作品は低調なのかなあと思い、それでも読み進めてゆくと、途中から、ああ、やはりこれは柴崎友香の小説なのだという感じになってくる。(大勢の人物を登場させるために、割合場面を短めにして積み重ねる感じに、たんにぼくが戸惑っていた、ということかも知れないのだが。)複数の人物が飲み食いしながら喋っている場面はあいかわらずとても良い。最初は、この小説が実加という人物の一人称ではなく、三人称多元のように書かれている必然性がよくわからなかったのだけど、実加を見つめる他人の視点がときおりふっと入り込んできたり、実加以外の人物の内省が、ほんの短く(すっとずれ込むように)挿入される感じが、ちょっと良いなあと思えるようになってくる。この小説は「かわいい女の子が好き」な女の子たちの話で、女の子ばかりが大勢出て来るのだけど、ほとんど唯一といっていいちゃんと描かれる男性である「森本」という人物が、すごくいい感じの奴で(実加と奈々子が「女の子的な社交性」によって盛り上がっている時に、「そういうの好きじゃないです」とぼそっと言ったりするところがとても良いのだ)、こういう人物がちゃんといるところが、この作家の小説の魅力なのだと思った。
この小説の後半には、実加と奈々子と森本が合っている場面、女の子限定カフェの場面、そして結婚式の場面と、小説のクライマックスと成り得るような充実した場面が三つもあって(それぞれの場面をクライマックスとして、三つの短編小説が書けるのではないかとさえ思う)、出し惜しみのない、とても贅沢な感じになっている。
初期の柴崎友香の小説はだいたい大学生くらいの女の子が主役だったのが、最近では二十代後半くらいの女の子になっている。その最も大きな違いは、主人公がフルタイムで働いているということだろう。主人公の女の子は、割合と気楽な職場で働いていて、とはいえ、会社で社会的な仕組みみたいなものに直面してもいる。しかし同時に、学生の頃のような気分も抜けてはいない。主人公の周囲にはまだ、「作品をつくる」ことが最も大切で、働くことや社会の仕組みなどに無関心な人物も数多くいて、その双方が決して対立することなく滑らかに繋がりつつも、微妙な差異もないわけではない、というような環境がある。このような環境を描き出すことこそが、柴崎友香の小説の魅力の多くの部分を占めているように思われる。しかし、このような環境が成立し得るのも、登場人物たちが二十代後半という年齢であることと関係しているだろう。例えば、「森本」は、三十になり、四十になっても、まだ「森本」でいつづけていられるのだろうか。つき合っている女の子に子供が出来たりして、じゃあ結婚しようかという話になり、結婚となるといろいろな現実的問題が否応無く浮上し、生活も重くのしかかってくる、という状況になってもなお、「森本」はどのようにして「森本」でありつづけることが出来るのだろうか。これは批判とか難癖とかじゃなくて、ぼくは、四十を過ぎても「森本」でありつづける「森本」や、「実加」でありつづける「実加」の小説が是非読んでみたいと、強く思う、ということだ。(勿論それは、次の作品ででも、すぐに実現して欲しい、ということではまったくないのだが。)