坂中亮太展、境澤邦泰展、浅見貴子展(二度目)

●銀座、ギャラリー現で坂中亮太展(http://www.jpartmuseum.com/jam_live/g_gen125/)、両国、ART TRACE Galleryで境澤邦泰展(http://www.arttrace.org/gallery/member/sakaizawa/sakaizawa.htm)、猿楽町、アートフロントギャラリーで浅見貴子展(二度目)、などを観た。
●坂中亮太展。必ずしもちゃんとした四角形ではない形にざっくりと切られ、描画によるダメージによって反りなども生じているぶ厚い紙が、上方の二カ所のみ、(一見)無造作に虫ピンで留められて展示されている。描かれているのはすべて女性だと思われる人物で、それらのイメージはおそらく、グラビアなどの印刷媒体の写真から取られたものだと思われる。繊細な色鉛筆のタッチが、しかし執拗に加えられることで紙の表面は荒れていて、その、紙とタッチとが一体化したかのようなテクスチャーのなかから、ぼうっと、妙になまめかしい女性の身体が浮かび上がってくる。その身体は、骨格などの構造がしっかりと捉えられているのではなく、ある特定の部分(それはしばしば脚-足である)のみが強調されているかのようだ。しかし、解剖学的にみれば、妙な歪み方をしているプロポーションで描かれてはいても、特定の部分の強調はあくまで身体全体のポーズのなかでなされているようにみえる。例えば、椅子に座ってスカートをたくし上げるポーズをとっている女性の絵は、たくし上げられて露出した太ももが強調されているように見えるのだが、その強調は、身体の特定部分の強調である以上に、身体全体で行われる「スカ?トをたくし上げる」という行為の結果として、そこでなまなましくあらわれる太ももとして強調されているのではないか。つまりここで描かれているのは、太ももという身体の特定部位への執着ではなくて、スカートをたくし上げるという仕草(身体の動き)であり、その仕草によって露呈された(生じた)太ももの生々しさという出来事であるように思われる。あるいは別の絵では、高いヒールの靴を履いて自転車に乗る女性が描かれるのだが、この絵では、高いヒールの靴でサドルにまたがることで生じる、膝から足首、足首からつま先までの、非常に高い負荷のかかる「曲げ方」をされた形の生々しさが強調されているようにみえる。しかしこれもまた、フェティシズム的な特定部位への執着ではなく、自転車にまたがるという身体の動きによって生じた、足下の艶かしさとして捉えられているようにみえる。
とはいえ、ここで描かれるポーズは皆、通俗的な「エロ」として日々大量に生産され、消費される紋切り型の範疇にある。解剖学的な骨格構造をそれほど意識していないように見える描き方は、時にその人物の形態を甘ったるいものにしてもいる。だが、どの絵も顔を奪われていて、形態の妙な甘さによって身体的個別性をも奪われているようなそれらのイメージは、通俗的に消費され、遺棄される、集合的な「性的イメージ」の墓場(無縁墓地)から回帰してきた(執拗に何度でも回帰してくる)幽霊であるかのような、不気味な感触が付与されている。映像的にみれば、やや甘い形態の人物像が、図と地とが一体のとなった模糊とした調子のなかからぼやっと浮かび上がっているような絵に過ぎないようにも見えるのだが、非常に抑制された美しいトーン、執拗に加えられることによって紙の表面と一体化したかのようなタッチ(テクスチャー)、そしてざっくりと切られた厚い紙の質感などによって支えられることで、そのイメージは、独自の感触を伴う、強い説得力を得ているように思えた。
●境澤邦泰展。まず最初は、これはとても完成度の高い立派な作品だけど、あまりにも「絵画」(絵画史)を当然の前提にしていすぎるのではないか、という疑問を感じた。(絵画史内絵画というのか。)しかし、しばらく観ているうちに、作品の完成度や強さにじわじわと圧倒されてきて、「絵画」というものを前提にしているからこそ、ここまで作品を(ぶれることなく)煮詰めてゆくことが出来るのかも知れない、とも思い、展示を観ながら「うーん」と考え込んでしまったのだった。展示されている作品のうちの何点かの密度ある充実は凄いものがあって、うーんと首をかしげつつも(違和感は残りつつも)、深くまで差し込まれ、押し切られてしまった、という感じだ。ここまで、誤摩化すこと無く煮詰められた絵画作品は、そうそうめったに観られるものではない。例え「絵画内絵画」であっても、それを徹底して煮詰めることで、そこを突き抜けることも出来るのかもしれない。「絵画」を前提としているからこそ、絵画を突き抜けた、「物」としての充実にまで至ることも可能なのかもしれない。
この展示では(というか、この作家は多分いつもそうなのだと思うけど)、とことんまで煮詰められてモノクロームに限りなく近づいたような作品と同時に、そこに至る何歩も手前の状態で留められたような作品も示されている。これらの途中(という言い方を便宜的にする)の段階の作品を観ても、煮詰められた作品が、このようなプロセスを経て出来上がってゆくということに、とても納得がいく。つまり、煮詰められた作品が煮詰まってゆくプロセスとして「信用出来る」感じがする。しかしぼくは、この二つの傾向の作品の「中間」あたりが最も気になるのだった。ぼくにはどうしても、途中(と便宜上言っておく)の作品と煮詰め切った作品との「中間地帯」こそが、絵画の可能性のもっとも広がりのある地点であるように思えてしまうので、そこが「見えて」いないことに、この作家に対する一抹の不信のようなものを感じてしまったりもする。いや、でもとても良い作品だと思う。
●浅見貴子展。何度観ても凄い。複雑であればある程に自由である、というか、それとも自由であるからこそ、ここまでの複雑さが可能なのだろうか。とにかく、驚く程複雑な秩序と密度を体現した画面が、同時に、いきいきとして捕われのない動きによって出来上がっているのだ。例えば「脈0701」という作品で、太い筆て力強くうがたれた点と、その背後に散らばる無数の小さな点と、白で引かれた枝を思わせる線とが、何故このような形で同一画面上に共存できるのか、どうやったらこんなことが可能なのか、いくら観ても分らないのだった。(ただ、これらの絵が画面の裏側から描かれること、つまり、描いている時は画面の表がどういう状態であるのか見えてはいないこと、は、とても重要なことだと思われる。)「樹木図6」という作品など、フレームの一辺が70センチ前後の小品であるのに、その一枚を観るだけで、山道を一時間くらい歩きまわったの同等なくらいの(視覚的なものだけではない)複雑な経験が濃縮された形で得られるようにさえ思う。