『ユービック』(フィリップ・K・ディック)

●『ユービック』(フィリップ・K・ディック)。SFとしてのネタというか、仕掛けとしてはもう古いのだろうけど、それでも面白いのは、ディック独自の質があるからだろうと思う。
(1)世界の外から告げられるこの世界の「真実(秘密)」が、必ず物質に刻まれた「文字」として現れること。ランシターからのメッセージがジョーに届けられる時、それは必ず書かれた文字として届けられる。映話やスクリーンを通して、声や映像として届けられるメッセージは、解読不能だったり、真偽が疑わしいものだったりするが、マッチに印刷されていたり、トイレの壁に落書きされていたり、警官の切る交通違反の切符に書かれていたりする「文字」は、「真実」として機能する。世界の「法」を告げるものが、必ず物質的な痕跡である文字によってもたらされるということが、ディックのある明確な病的傾向を示しているように思われる。
(2)身体の能力の収縮や縮減の果てとして「死」の感触が描かれること。この小説に描かれる時間の退行現象は、それが外の世界の出来事である分に関しては、SF的な意匠の範疇にあるに過ぎない。しかし、それぞれの人物を死に至らしめる、身体的能力の退行と、身体の物質的収縮の感触は、たんに意匠を超えた実質的な説得力がある。(それはわれわれがミイラを見る時に感じられる感触とどこか繋がっている。)ウェンディの死骸を目にしたジョーの思い。そして、トイレの個室に籠って死を向かえようとするアルの描写。そしてなにより、この小説中で最も読み応えがあるリアルな場面は、自らの衰弱から死を覚悟したジョーが、一人になれるホテルの部屋を目指して、衰弱した身体の能力を振り絞って階段を一段一段昇り、それを横でパットが冷酷な眼差しで見つめているところだろう。この場面のジョーの内的な描写は、われわれにとっての「死の恐怖」が、身体的な能力の限りない縮減(そして消滅)への恐怖であるだけでなく。絶対的な孤独へと向かうことの恐怖であるという感触を、なまなましく描き出しているように思う。この場面を読むためだけにでも、この小説を読む価値がある。
(3)世界との接続がギクシャクしているという感じ。この小説における「時間の退行」には複数の意味がある。世界全体は、たんに過去へと退行しているだけで、それは最新式のテクノロジーが古いものにとって変わるというだけに過ぎない。身体的な退行はそれとは無関係に起こり、いつ、誰のもとに起こるか分らない、急速な老化(収縮)としてある。これは、世界は過去に向かっているのに、そこにいる人物たちはその逆行とは無関係であることを示す。もう一つ別の時間の混乱があり、それは、人物が手にした物質が急速に古びてしまうということだ。手にしたコーヒーにはカビが浮かび、タバコはボソボソになって崩れ、食品は腐る。(世界の退行と一致するのならば、タバコはボソボソになるのではなく、新しい銘柄が古い銘柄に変わる、という変化をみせるはずだろう。)登場人物の持つ貨幣が古いものになってしまうという出来事は、たんに世界の退行の一種のようにも思われるが、しかしそれは世界の退行とリズムが一致していない。世界はまだそれほどは古くなっていないのに、貨幣のみがより古いものになっていたりする。これらの不一致は一見、物語構成上の矛盾(破綻)のようにも思える。しかし、このような「時間の退行」におけるリズムの不一致は、登場人物と世界との関係をギクシャクしたものにすることに貢献している。というか、もともと主人公のジョーは、時間が正常に運行している物語冒頭において既に、この世界との間にギクシャクした関係しか築けていなかった。(そしてその関係において、「世界」の方が圧倒的に優位にあり、「私」はただそれを受動的に受け入れ、振り回されるしかない。)だから、この、世界との関係の齟齬は、ディックにおいてもともと強く感じられていたものに過ぎず、時間の混乱はこれを強調するために導入されていると思われる。(もしかすると、このような「時間の混乱」は、ディックが主観的に体験していたことなのかも知れない。)
(4)冷凍保存された「死体(半生者)」の、そこに残留している霊波を増幅することによって、死者と話が出来るという発想。死んだ者も、必ずしも完全には死に切っておらず、わずかな霊波が残されていて、その状態を物質的に保存し、電気的に増幅することで、ある一定期間は、話をすることが出来るということ。これは永遠に死者と話が出来るということではなく、残された霊波の残量に応じて、一定期間、完全な死へと移行するまでの猶予期間が与えられるということだ。彼等は生き返ることは決してないが(時間は不可逆的だが)、しかし死によって唐突にその存在の全てが消えてしまうのではなく、残された者が死を受け入れるための猶予(喪の期間)を与えてくれる装置だと言える。このアイディアは、この小説の「物語」を可能にする「器」を形成しているのだが、それを超えて、より一般的に共感されるものであるだろう。このアイディアには、おそらく、ディックの回りにいた、何人もの友人たちの「死」という現実的な出来事がまとわりついているのだろうと感じられる。
●例えば東浩紀は「神はどこにいるのか:断章」(『文学環境論集 東浩紀コレクションL』)で、『ユービック』について、虚構世界から最終審級に向けての「脱出」を描いており、しかし最終審級がどこにあるのか誰にも分らない、という構造をもっている、と書く。しかしぼくには、この小説では「脱出」などほとんど問題になっていないし、最終審級も問題になっていないように思われる。(確かにラストでランシターの「生きている世界(現実世界)」もまた疑われるのだが、それは、小説としての「気の利いた締め」という以上の意味があるとは思えない。)この小説の実質を支えるのは、あくまでディックによる「死の感触」の形象化であり、その感触が日常のなかに、そして自身の身体のなかに、拡散しつつも、確実に浸食してきていることへの恐怖であるように思われる。