ラカンにとって「手紙は必ず宛先に届く」。それは、たまたま届いたところが、事後的に「宛先」となるからだ。偶然は、象徴的なもののネットワークのなかで(事後的に)位置づけられることによって、必然となる。(だからそれは、すべての手紙は誤配されるということと、ほとんど同じだ。)人は、たまたま自分のところにやってきた手紙を、自分のために書かれたものだと思い込み(あるいは自分が主体的に選択したものだと思い込み)、そこに自分の姿を投影し、そのまわりに主体をかたちづくる。だからそこでは「偶然」が排除されているのではない。フロイトがレオナルドについてのテキストで書いているように、「ほんとうは、われわれの生のいっさいが偶然なのである」。しかしそれは、「人生は無だ」という言葉と同じような意味での真実なのであって、それがいかに正しくても、人はなかなかそのような真実の上で生きることは出来ない。だからこそ人は、事後的に後付けされる「意味」のなかで生きる。(しかし勿論、その「意味」はあくまで「偶然」の上に辛うじて乗っかっているのだが。)
ドゥルーズの『シネマ2』を、しつこく、あちこちひっくり返しているのだが、多くの人がそう思うだろうけど、やはり、「この世界を信じること」が、いきなり出て来る第7章の流れは、いかにも唐突に感じる。世界に関わるような行動が不可能になり、ただ圧倒的なものとなった視聴覚的イメージを「見者」として受動的に受け入れるだけしかなくなった人物、彼等が強いられる「思考することの不能性(を思考すること)」、という話がアルトーの名の下に「精神的自動装置」などという言葉が引かれつつ展開するなか、一転して、「この世界が耐えがたいもの」だからこそ、「人間と世界の絆、愛あるいは生」を信じることが重要であり、映画はそのためにこそつくられなければならないという話になる。この後、非カトリックの作家の映画にさえある映画のカトリック性みたいな話も出て来て、「われわれはこの世界を信じる理由を必要とする」という「信仰」の話にまでなってくる。そして、パゾリーニを例に挙げつつ、数学における「問題」と「定理」の違いの話になってくると、何か「決断主義」の匂いさえしてくる。
《問題の特徴とは、それが一つの選択と切り離せないということである。数学において、一つの直線を二つの等しい部分に分割するということは、一つの問題である。われわれはそれを、等しくない部分に分割することもできるからである。(略)一方直角を半円に内接させることは、半円のなかのあらゆる角は直角なのだから、一つの定理なのである。ところで問題が本質的決定にかかわるものであり、数学的事項にかかわるのでないとき、選択はますます生きた思考と不可測の決定に一致することがわかる。選択はしかじかの項にかかわるのではなく、選択する人の存在様式にかかわるのだ。すでにパスカルの賭の意味とはそういうものだった。問題は神の存在または非在の前で選択することではなかった。そうではなく、神を信じる者の存在様式と、神を信じない者の存在様式との間で選択することだった。》
この辺りの一連の部分は、おそらくこの本のなかで最も感動的な部分なのだろう。しかし、それ自身で感動的ではあっても、じゃあ、この本のここまでの記述と、この話がどう繋がるのかということになると、いかにも無理矢理な展開と感じられる。一体、ドゥルーズの記述のどの部分から「信じる」などという言葉が出て来るのだろうか。何かを「信じる」ためには、それを「信じる」という存在様式を選択するための「(能動的な)主体」が必要だろう。しかし、そのような主体の存在は、運動イメージの成立しなくなった現代映画に関するドゥルーズの記述からは出てこない。そこで、「信じる主体」にかわって、世界を「信じる」ための「一つの身体(あるいは「脳」)」が要請される。しかしこの後の章で展開される身体と脳の映画についての記述は、ゴダールやレネの映画についての記述としては面白くても、世界を「信じる」ための身体(脳)の記述としては説得力に欠けるように思う。(唐突な「信じる」は、理論的な展開としてだけでなく、この本全体のトーンからしても、いかにも唐突であるように思われる。おそらく、この「信じる」という言葉は、この本の記述の流れのなかから必然的に出て来たものではなく、その外側、つまりドゥルーズ自身の「身体(あるいは情動)」から唐突に吹き上がるように出て来たものなのだろうと思われる。)
ドゥルーズはこの本の後にライプニッツについての本を書いた(『襞-ライプニッツバロック』)。そしてこの本のなかで、モナドという概念を使いつつ、身体について次のように書いている。これは、『シネマ2』の補遺のようにも読める。
《私は明晰で判明な表現の帯域をもっている。なぜなら私は始源的な特異性と、理念的潜在的な出来事をもっているからであり、私はこの出来事へと運命づけられているのである。ここから演繹が繰り広げられる。私は一つの身体をもっている。なぜなら私は明晰で判明な表現の帯域をもっているからである。実際、しかるべき機会に私が明晰に表現するもの、それは私の身体にかかわり、すぐ間近で、付近で、周囲で、環境において、私の身体に働きかけるであろう。シーザーは、ルビコン河をわたるということを明晰に表現する精神的なモナドである。彼はそれゆえ、液体によって、しかじかの水によって濡れることになる身体をもつ。しかしこの点で、知覚が対象の知覚となったとき、すべてが不都合なく、逆転するかもしれず、私は通常の言い回しを、相似の習慣的、経験的な秩序を見いだすかもしれない。つまり私は身体をもっているから、明晰で特権的な表現の帯域をもつ。私が明晰に表現するもの、それは私の身体にやってくるものである。モナドは、自分の身体に「したがって」、その身体の器官にしたがって、その身体に対する他の身体の作用にしたがって、世界を表現する。「魂の中に起こることは、もろもろの器官において生成することを表象する。」こうしてモナドは、作用を「受ける」ということができる。実際にはモナドは自分自身から、知覚されるもののすべてを引き出すのだが、私はあたかも、自分自身の身体に作用する諸物体が、モナドに作用し、知覚を引き起こすかのようにふるまう。これは単なる言い方の問題だろうか。》(p169-170)
確かにこれはびっくりするくらい「上手い言い方」だとは思う。しかしここでは身体から、問題(選択)と定理(必然)の違い、という「問題」は、つまり「信じる」という事柄は消えてしまっている。
●『精神分析現実界』(立木庸介)という本を読んでいる。この本には、精神分析に関する様々な問題が、精緻に、そして分り易く書いてあって、ぼくのような、欲動とか象徴界とか享楽とかいう言葉をなんとなくは使えるけど、深く突っ込まれるとちょっと...、というにわかラカン読者にはとても勉強になるし、面白い本だ。特に、六章、七章で扱われている(現実界としての身体と)「欲動」については、今のぼくの関心とぴったり重なっていて、とても助かる。
この本の最後の章(「質量と偶然」)では、アルチュセールの「出会いの唯物論」と、アリストテレスの「目的論(目的因)」が重ね合わされて論じられている。ここで、アルチュセールアリストテレスは、ほとんど重なり合いながらも、ただ最後の一点(結論)のみで袂を分かつ、とされている。(アルチュセールの議論はアリストテレスによってネガティブに先取りされている、と。)そしてここからはぼくの自分勝手な読み取りに過ぎないのだが、この最後の一点の違い、アリストテレスの目的論的誤謬は、しかし、たんに誤謬として片付けられるものではないだろう。
《じっさい、これまでのアリストテレスの記述のうちに私たちが見出すのは、もしも目的性が存在しなければ、もはや必然と偶然とを截然と区別する基準はなにもない、したがってそのときには、必然が偶然のなかに転覆してしまう、ということ以外のなにものでもない。アリストテレスの考える自然(=絶え間なく生成するもの)においては、ひとり目的性のみが必然を偶然から隔てている。それゆえ、もしそれが失われてしまえば、必然は偶然のなかに呑み込まれてゆかざるをえない。そしてそれが、アリストテレスが彼の先人たちの唯物論を退ける根本的理由なのである。》
《じっさい、切歯(門歯)がなぜこれこれの形をしているのかを純粋に物理的な理由のみから説明することは難しい。私たちはただ、それは肉を食いちぎるためである、と目的論的に捉えることしかできない。とすれば、逆に、もしこうした目的性をいっさい認めないとなると、歯の形についていかなる合理的な説明もできなくなってしまう。私たちにできるのは、せいぜい、それは偶然にすぎない、と呟くことくらいだろう。》
《少なくともアルチュセールの構想する出会いの哲学は、まさにそうした世界を、すなわち、存在の必然の底に偶然の空無が横たわる世界を、私たちに描き出してみせる。アリストテレスアルチュセールの歩みは、ここにおいて---おそらくどちらにとっても思いがけない仕方で---再び交差する。アリストテレス唯物論を拒否しつつ目的性の概念を導入する、その一歩手前で彼の議論を切り上げてしまえば、私たちはアルチュセールが考えている世界とほぼ同じ内容の世界を手に入れることができる。》
切歯の形の「原因」を「肉を食いちぎるため」とするのは、明らかに偽の解答であろう。それは原因と結果とを(事前と事後とを)取り違えている。しかしこれはアリストテレスの誤りではなく、人は常にこのように間違う、ということだ。アリストテレスが、「人は常にこのように間違う」という必然性において、「目的論」を選択したのであれば、それはたんなる間違いではない。ここで潔く「正しい」唯物論にあくまで従うとするなら、切歯の形については、ほとんど「何も言えない」ということになる。しかし、ほとんど何も言わないということを貫く人でも、実際には切歯を、あたかも「肉を食いちぎる」ために存在するものであるかのように「使う」だろう。世界は決して目的論的に出来ているわけではないとしても、人はほとんど常に目的論的な世界を生きている。アルチュセールがわざわざ「(徹底した偶然性を、目的からのズレを生きる)出会いの唯物論」を言い立て、それに「賭ける」のは、われわれが通常は目的論的な(目的や必然を必要とする)世界に生きているという前提があってのことだろう。アリストテレス的な目的論(観念論)とアルチュセール的な唯物論は、背中合わせでほとんど一体となっている。おそらくこれが、精神分析的な認識なのではないだろうか。そうであれば、ドゥルーズのように唐突に、いかにも無理矢理に、「世界を信じる」とか言い立てるのではない、もっと別のあり方が出来るのではないだろうか。