岡崎乾二郎の作品で一貫して問題になっているのは

岡崎乾二郎の作品で一貫して問題になっているのは、フレームと筆致(作品全体とそれを構成する諸部分)との関係で、つまり、個々のバラバラな経験を、それぞれを殺す事なく、どのように纏める(統合する、組織する、関係づける)ことが出来るのか、どのような原理によってそれが可能なのか、あるいは、不可能なのか、というようなことだろう。
一枚の絵のなかからは、いろいろなものが見えてくる。いろんな色があり、いろんな形があり、いろんなテクスチャーがある。「作品」であるためには、それらのものたちが、何らかのたちで緊密な関係をかたちづくっている必要がある。だけど、そもそも複数の感覚のよせあつめであるものを、「一つの」作品の経験であるかのように扱えるのは、たんに、それらが一つの「フレーム」に納まっているからに過ぎないのではないか。その時、フレームとは、あらかじめ与えられた区画のことであり、あるいは、社会的、歴史的に構築され、あらかじめ認定されたジャンルであったりする。(例えば、ハイアートは、ハイアートを受容する社会的階層に規定される。)作品から与えられる様々な、雑多な感覚的経験は、そのような既にあるものとしてのフレームから遡行的に見出され、組織化される。そうである限り、そもそも雑多なものであったはずの感覚的経験は、あらかじめ規定されてしまっているものの枠内へと(事後的に)矮小化されてしまうだろう。
そうではなく、ある感覚的な経験が、別の感覚的な経験と(偶発的に)何かしらの共鳴が生じることで、その都度、新たにフレームが組織し直される、というような経験を構成することは出来ないだろうか、と。岡崎氏の二枚組の作品で、左右の画面に、同じ形がことなる色彩で反復されるのは、たんに左右の画面の間に対応関係がつくられるのが目的ではなく、それを意識することで、細部がフレームの縛りを越えて外にまで伝播することが重要なのであって、例えば、絵画のなかにみられる赤い絵の具の塊が、手前のテーブルに置かれた緑の花瓶と共鳴することで、そこに新たな経験のフレームがたちあがる、というような出来事に対して、作品が開かれることが目指されているのではないだろうか。(勿論それは、それを狙ってテーブルに緑の花瓶を置いておく、ということとはまったく異なる。そのような狙いこそが、「予めあるフレーム」の拘束力なのだから。)岡崎氏の絵画において、一回性をもつように見える筆触が、デザインのパターンのように複数の場所にみられるのは、その操作性、分析性が問題なのではなく、おそらく、その複数性、偏在性によって、細部がフレームの拘束を逃れることが目指されているのだ。(岡崎氏の好む、言語構造とのアナロジーであえて言い換えるとすれば、同一の語が、文法や文脈や意味の流れの束縛を越えて、至るところに反復的に顔を出す、というようなことだろう。)それが充分成功しているかどうかは、また別の話だが。(つまり、観る方はどうしたって、分析性、操作性の方を見てしまう傾向がある。)
岡崎氏の作品では、画布に絵の具が「いきなり」のっかっているように見える。この「いきなり」感が新鮮なのだ。アカデミックに絵画を習得した者は、どうしても画面全体で調子(トーン)を合わせる、色価を調整する、ということを考えてしまう。だがそれは、調子や色価によって画面の破綻を(予め)防ごうとする消極的な態度で、それはまるで、同調圧力によって集団の秩序を維持しようとすることに似ている。そうではなくて、いきなりそこに、一人の人間がドーンと居るかのように、絵の具の塊が画布の上にドーンとのっている。まず、そこからはじまる。そこからはじまって、癖のある野武士の集団のようなチームを(その都度)どのように組織出来るのか(機能させられるのか)。岡崎氏の作品ではこのこと(まず、いきなり、であること)こそが重要であって、その結果、絵画が彫刻的なものに近づいてみえたとしても、それは副次的な問題に過ぎないと、ぼくは思う。
●確かに、社会的、歴史的に構築されたものとして、我々の経験を外側から規定しようとするジャンルというものはとても「強い」束縛なのだが、歴史的を耐えてきたジャンルにはそこに蓄積されたものの厚みがあるので、ある程度それに頼ることが、必ずしも悪いことでもないんじゃないかと、ぼくは思うけど。