『甲野善紀身体操作術』(藤井謙二郎)をDVDで

●『甲野善紀身体操作術』(藤井謙二郎)をDVDで観た。ここで甲野氏は、「運命は全て決まっていると同時に自由である」というようなことを述べている。この二律背反的な言葉はそれ自体としてはありふれているが、この、ありふれている言葉が、甲野氏にはあるときふっと腑に落ちた、と。つまり、この言葉をリアルなものとして感じることが出来たということだ。そしておそらく、それは、甲野氏が自らの身体的な実践として、身体の複数の部分をそれぞれバラバラに用いて、互いに矛盾する動きを同時に行い、しかもそれを「一つの動き(技)」として動くことが出来るようになった、という事実に裏打ちされている。しかし、考えてみれば、運命を巡る二律背反的な思弁と、ある身体の状態(動きの有り様)とは、直接的(論理的)には繋がるものではない。つまりそれら相互の関係は不確定だ。にも関わらず、甲野氏にとってはその繋がりは疑い得ないくらいにリアルなものと感じられているのだろう。ここではおそらく、ある身体の状態(動きの有り様)、そこで内観として感じられる感覚の複雑な有り様そのものが、「隠喩」として、「運命は全て決まっていると同時に自由である」という「意味」を生産しているのではないだろうか。言葉の意味が身体そのものを指し示すのではなく、身体の状態が、その意味となる「言葉」を指し示す。ここでは、通常、素朴に考えられているものとは、事物と言葉との関係が逆転している。
「敵を騙すにはまず味方から」という言い方をする甲野氏は、自分が動こうと「考えて」しまっては動けなくなるから、考えるより先に(自分でも動こうなどとは考えていないかのような状態のまま)、動きそのものが自ら動き出すかのように、いきなり動いてしまうのだ、と言う。勿論ここには複雑な操作がある。身体が勝手に動き出すためには、あたかも「身体が勝手に動き出す」かのように動こうという意思が必要で、つまり稽古とは、身体が勝手に動き出すかのように動けるような、通常の「意思(考えや主体)」とは別の意思の有り様によって身体を制御するやり方を探ることでもあるだろう。(稽古は、身体を「鍛える」のではなく「技」という新たな構造を獲得するためにするのだ、と甲野氏は言う。)意思とは関係ない、自ら動くような動きをコントロールする、というのは言葉の上では矛盾するが、実際にそれが「出来る」ことによって、言葉の、意味の上での整合性(の絶対性)が疑われ、それが矛盾を含む「言葉(命題)」の受け入れを準備する。それによって、言葉はその地位を剥奪されるのではなくて、逆に言葉が救われている、という印象を受ける。つまり言葉には、その論理的整合性を超え、その情報的価値をも超えた、なにがしかの真実が宿り、それ保証する、というような。
(武術とは基本的に殺し合いに起源をもち、つまり、予期しなかったところから敵がいきなり襲ってくる時に対応するために、あらゆる意味での動きのための「準備」を省こうとする傾向にあるのだと思われる。敵を認識してから動いたのでは、そこで既に一歩遅れてしまう。フェアな状況をつくって、そのなかで互いの技量を競う合うスポーツとはその点で異なる。しかしそれが、「殺し合い」という目的から切り離されて、純粋な探求となった後にもなお、「準備」を省き、「いきなり」であろうとする傾向が保持される時、それは、世界のリアリティに関する、別の意味をもちはじめるように思われる。)
カントは、美を「目的なき合目的性」だという風に言う。つまり美とは、それがどのような目的ももっていないにも関わらず、何かしらの目的がそこに含まれているかのように感じられるものだ、と。言い換えれば、美は、未だ解明されてはいないが、未来にはおそらく解明されるであろうことが期待されている、何か「良いもの」へと開かれていて(少なくともそのように感じられていて)、その「隠喩」となっている、ということだと思われる。これは、未だ解明されていない真理が、未来においては解明され得るという希望を、美が隠喩している、ということだろう。この時、美によって感じられる快楽や充実を伴う感覚的な手応え(現在)が、時間を、前に(未来に)向けて進めて行くための原動力として作用している、ということだ。甲野氏においても、技の探求に伴う感覚の変化や充実、それが自身の身体だけではなく、周囲の世界との関連を確実にもっているという実感などの、「現在の(感覚の)質の充実」が、人生の意味(運命は全て決まっていると同時に自由である)や、生命や宇宙への探求という、「意味」へと繋がっていることは明らかだと思われる。(甲野氏においてそれは、「未来」へと均質に進む時間=未来への期待とは結びつかないと思われ、その点でまったく異なるのだが。)しかし、今、自身のなかで動いている感覚の感触が、それ(充実した現在)だけに留まらずに生命や宇宙の探求へと広がり出てゆくまさにその瞬間の立ち上がりに、どうしても「言語」という媒介が作用してしまうという事実が、人間にとってどうしても避けがたくある。甲野氏においても、そこから自由ではないとも思われる。ただ、その言葉の使い方の位相をかえるということはあるかも。
●面白かったのは、甲野氏があみ出した「技」の数々が、甲野氏のもつ探求への意思や動機などとまったく無関係に、例えば介護の現場などで利用され、ひろがっているという事実だ。つまり、「技」というのは個人に所有されるものでも、目的に従って(例えば「武術」というジャンルのなかだけに)存在するものでもなく、事物のようにこの世界に「実在する」ものであり、その応用性によってこそ、その「正しさ」が証明されるのだ、ということだろう。(まさに「出会いの唯物論」)
●「作品」としては仕方ないのかもしれないけど、余計なインタビューやエピソードなどどうでもいいから、もっと甲野氏の「技」を見せてくれよ、と観ていて不満がつのる。実際、甲野氏が技の説明する場面を延々と追っているだけの「特典映像」(編集でカットされた部分だろう)の方が、本編よりもずっと面白かった。(これは作品として観るようなものではなくて、「技」の部分を何度も繰り返して観るようなものだろう。)
下らないこじつけだけど、力の出どころが分らない「井桁崩しの原理」って、ぼくのドローイングの原理に近いように思ったりした。(でも、井桁崩しが三次元になるって凄い。ちょっと想像も出来ない感じだ。ましてや、垂直離陸とか、分身の術とかって。そして、このような言葉は、何かの導きになり得ると同時に、落とし穴にもなるのだろう。)