『デジャヴ』(トニー・スコット)をDVDで

●『デジャヴ』(トニー・スコット)をDVDで。なるほど、という感じ。確かに、この映画の中盤で起こっていることは、ちょっと凄いことだとは思う。でも、全体としては、それほど面白くはない。最近のトニー・スコットを、なんでそんなに多くの人が褒めるのか、ぼくにはよく分らない。(映画がはじまってしばらくつづく、かったるい編集とか、これでいいのだろうか。)
この映画の中盤、デンゼル・ワシントンが車を運転していて、片目で四日半前の映像を観ながら四日半前の犯人を追跡していて、もう片方の目で現在を観つつ、しかも高速道路を逆走するというとんでもないシーンは、『マイノリティ・リボート』で、トム・クルーズと一緒に逃げている時に、プリコグが観ていたであろうイメージが、まさに具体的に映像化されているという感じだった。その後、デンゼル・ワシントンがヘッドギアを使って仲間に四日半前の映像を送りつつ、自分は現在を観ている時、四日半前の元同僚が殺されるシーンを、スクリーンを通して今まさに観ている仲間たちと、その音だけを聞きつつ、現在のその場所で、同僚が殺された痕跡を観ているデンゼル・ワシントンとがモンタージュされているのだが、それを観ている観客は、自分が、一体、いつ、どこに存在しているのか分らなくなる。過去と現在が同時に並立しつつ、しかし切り離されている。そして、二つの場所もまた、結びつけられ並立しつつ、切り離されている。そしてそれらをすべて、観客は同時に観ているわけだ。それに、四日半前の映像をずっと見続けていると、四日半前もまた、もう一つの現在のように感じられ、二つの現在がズレをもったまま進行するような感じになる、というのも凄く面白い。(四日半前は生きていて、今は死んでいる人は、まさに、生きているのと同時に、死んでもいるのだ。)しかし、このような、複数の時間が、互いにズレをもちつつ共存している様を、(いわゆる「芸術っぽい映画」みたいな形式ではなく)誰にでも経験出来るような分り易い形で示している凄いシーンがあるのは映画の中盤だけで、映画のクライマックス、デンゼル・ワシントンが過去に戻ってからは、ひたすら、様々な「徴」が合致すること、タイミングが合うこと、伏線が回収されること、ばかりが重要になってしまって、それがぼくには退屈に感じられた。(おそらく、感覚にとってはズレの方がリアルなのだけど、物語=納得としてはシンクロこそが重要になる、ということなのだろう。)
ただ、ラストで出会う二人が、それより(映画の線的時間としては)前に、捜査官と死体として出会っていた時とは、同じ人物であるはずのに、まったく別の人物に入れ替わってしまっている、というところは面白い。ひとつの時間に別の時間が入り込み、同じ人物だったはずが、(同じ人物のままで)別の人物に入れ替わってしまう。(どちらも、以前に出会った時の記憶ばかりでなく、経験そのものを持っていないのだ。というか、「以前」ではなく、それは「未然」なのだが。)
それにしても何故、人は、時系列が混乱するということに、こんなにも強いリアリティを感じるのだろうか。