●印象的な夢を観て目が覚め、しばらくはその夢の雰囲気のなかに留まっていたとしても、起きてしばらくすればその感触はすっかり消えてしまう。もし、それを憶えていたければ、その感触がまだ残っているうちに、夢を言葉にするなり、絵や図にするなりして、その感触を思い出す手がかりを残しておかなくてはならない。しかし、言葉や絵によって、夢の感触を完全に再現することは出来ない。どのような表現でも、表現されたものは、その表現形式そのもののもつ形式なり秩序なりに従うことによって変形される。それは、感触は感触として残っていて、そのオリジナルな感触と、表現されたものの間にズレが生じてしまうというよりもむしろ、表現することによって、感触そのものが変形されてしまうということだ。もともとあった感触は、表現形式に刺し貫かれることで、別のものになってしまう。その時すでに、もともとあった感触は消えてなくなってしまっている。しかし、何かしらの表現形式によって表現されないのならば、夢の感触は、海からたちあがった波が再び海へともどってゆくように、消えてしまう。
ある感触が表現されることで、もともとあった感触とは別物になってしまったとしても、その表現されたもののなかに、何かしらの痕跡としてその「原-感触」が残っていて、表現されたものからそこへとたどり着くことが出来る、ということは信じられるだろうか。作品というものが、出来るかぎり「夢そのもの」へと近付こうとする言葉の有り様であるとするならば、作品を読む(観る)ということは、その痕跡を通してもともとあった「感触」に近付こうとすることと言えるだろうか。