DVDで『叫』(黒沢清)を観直して

●DVDで『叫』(黒沢清)を観直して、この作品がいかに黒沢清にとって必然的なものなのかを改めて思った。例えば『回路』で、黒沢清は「幽霊に触る」ことにこだわっていた。『回路』では、人が、廃工場の上から飛び降りて、地面にまで達するところがワンカットで捉えられていた。このようなカットが「撮れてしまうこと」そのものが、人に映像への信頼をなくさせる。通常では、実写映画でワンカットで捉えられた出来事は、たんに映画の上での出来事ではなく、現実上の出来事として実際に起こったことであり、映像はそれを記録したものだ、と信じられる。物体が落下して壊れれば、それは「映画として」壊れただけでなく実際に壊れたのだし、誰かが別の誰かを殴れば、それは実際に殴ったのだし、誰かが誰かにキスをすれば、それは実際にキスしたのだ。しかし、『回路』の飛び降りのカットは、実際に人がそのように落下したのではない。(実際にそんなことをすれば、その人は「実際に」死んでしまう。)おそらくこのカットは、二つのカットを、まるでワンカットにしか見えないように巧妙に繋ぐことで成立している。つまりこの時、映像と現実とを繋いでいた「回路」が、映像を操作する技術によって断ち切られる?映像はたんに映像でしかなく、現実を反映するもの(現実を保証するもの)ではなくなる。それは、技術によってどのようにでも表現できることによって、固有の意味を失い、たんなる「それらしい嘘(効果)」のバリエーションの一つでしかなくなる。目に見えることが、見えた通りには信用できなくなるのだ。(映画の「現実主義」は破綻し、世界は幻想-幻覚化する。)
そこで黒沢清がとる解決策は、おどろくほど素朴なものだ。見るたけでは信用できないから、触ってみる。『回路』において、幽霊に触ることが出来るかどうかは、ものすごく大きな問題だった。幽霊が、たんに「見える」だけだったら、その実在は証明されない。だから、人はそれを無視して、あたかも「見えていない」かのように振る舞うことさえ可能かもしれない。『回路』の加藤晴彦は、幽霊を否定するために触って確かめようとする。どうせお前なんか、見えているだけで触れられないだろう、と。しかし、予想に反して幽霊を「触る」ことが出来てしまう。「触る」ことが出来る以上、人はその「実在」を信じるしかなくなる。(そこから、世界の滅亡までは一直線だ。)
『叫』では、もはや「触る」という素朴な行為では実在を信じられないくらい、視覚は過剰であり、その嘘は巧妙にはりめぐらされている。世界は幻覚そのものであり、イメージは、それをつくる人の狙い通りに、どのようにでも作ることが出来る。人は、自分が見たくないものを見ないために、それを隠すための過剰なイメージを、そのまわりに配置して、それを覆い隠す。人は、自分に対してついた嘘を信じ込み、それが嘘であることに気づくことは出来ない。役所広司小西真奈美に触れることが出来るが、それは小西真奈美の実在を保証しない。(ラスト近く、役所が小西を抱きしめているが、実は「空」を抱いているだけだ、というシーンは、『右側に気をつけろ』の孤独な「男(あいつ)」を思わせる。)
『叫』の全体、驚くべき密度をもつ視覚的経験の総体は、すべてが巧妙に仕組まれた「嘘」であり、人はその嘘の外には出られない。しかし、嘘が嘘である限り、そこには必ずなにかしらの破綻があり、その破綻のみによって、人は現実と結びついている。葉月里緒菜(そして地震)は、その破綻そのものの形象化であろう。(葉月幽霊は、「顔」があるという以外は、あらゆる面で『花子さん』の花子さんと同じ形象をもつ。全体に緊迫した雰囲気が持続するこの映画で、葉月が出て来ると観客は何故か「笑って」しまう。)人は自分に嘘をつき、その嘘のなかで、嘘を生きることしか出来ないが、しかし、それは嘘である限り必ず何かしらの破綻をもっていて、結果として、その破綻によって、嘘は、それによって隠そうとしている「真実」を結局は語ってしまうのだ。物語を語ることが危険なのは、巧みに嘘をついているつもりでいて、しかしそれがいつのまにか、嘘の破綻の在処こそを露呈してしまうことになる点にあるだろう。(過剰なくらいこちら側に迫って来る、葉月里緒菜の「顔」。)そして「嘘」の世界は滅亡する。勿論、その下から「ほんとうの世界」があらわれるわけではない。真実は常に破綻としてしかあらわれない。(だから、断固として欺瞞を拒否するとすれば、世界は繰り返し滅亡するしかなくなる。)嘘をつくことによって、結局人は真実を語ってしまうのだし、嘘の「語り」によってしか、真実を語ることは出来ない、というのが『叫』という映画だとしたら、こんなにあからさまにフロイト的な(反-表層主義的な)映画も他にないのじゃないかと思う。