●「x-knowledge HOME」という雑誌のNo.9「20世紀建築の巨匠」を、編集の方から送っていただいた。そこに岡田利規のインタビューが載っていて、気になった点が二つあった。一つは、ぼくが普段感じているようなことを、凄くシャープに代弁してくれているようで(勝手にそう思っているのだけど)、成る程と、とても納得したことで、もう一つは、それはちょっと例えがズレているのじゃないか、と疑問を感じたこと。
●まず、とても納得したこと。舞台美術は「ない」ものと考えていて、『エンジョイ』の時はあのスロープが決まっていて、ちょっときつかった、みたいな話。
《あ、例えばライブハウスでやるときは、まずそのライブハウスのコンクリートの感じが好き、とかそういうのはあるわけです。で、そこの空間をそのまま使っているということが、僕もわかっているし、もっと言うとお客さんもわかっている。例えばこの作品とこの空間は、本当は何から何までフィットしているのかとか、この柱がちょっと邪魔で本当はないほうがよかったみたいなことが仮にあったとしても、でもそこに柱があるという現実は、別に受け入れられる。そういうゆるい関係が取れる気はするんですね、それ用につくったわけではないですから。
だけど、その作品のためにセットをつくったのが誰の目にも明らかな場合は、例えばいま言った、本当はそこに柱がないほうが都合いいっていうところは、ものすごく重大な問題になってくるし、問題にしなければいけないし、そこは直さなくてはいけないし、みたいになってくるし、そういうのはちょっと窮屈な気はします。》
これはまったく自分勝手に読んでしまうのだけど、ここで言われていることって、ぼくが自分の作品とそれが展示される場所について考えていることに、とても分り易くシャープな言葉を与えてくれた感じなのだった。作品は作品で、展示空間を意識せずに別の場所でつくられ、展示空間は、作品とは無関係にそれとしてある。勿論、まず、ぼくの作品を展示するのにその場所が適当であるのか(いい感じだと思えるのか)、という判断はある。ぼくの作品は素晴らしくて強いから、どんな場所に展示しても大丈夫だ、というほどうぬぼれているわけではない。で、ああ、この空間はいい感じだ、と思ったとしても、それは自分の作品のために作られた空間ではないし、作品もまた、その空間のために(その空間を意識して)つくられたのではなく、それはたまたま偶発的に出会ったのだ、みたいな関係は、結構重要だと思う。作品は、そこで展示することを前提につくられたのではないから、もう少し小さい作品があと一点あればここの空間が上手く生かせるのに、とか、この柱が中途半端な感じに空間を仕切ってしまっているとか、そういう完全には上手くいかないところはありつつも、それも含めて作品と空間が出会う感じがある。しかし、はじめから空間を前提にして、「そこ」に展示するために計画的につくられる作品は、効果としては効率的でも、そのような偶発性が入り込む余地がはじめからなくて、苦しい感じが、ぼくはすごくしてしまうのだ。(関係ないけど、こういう時にすぐ、歴史的にみてホワイトキューブは....、みたいな話を持ち出す人は、ちょっとどうかと思う。)
あと、この岡田氏の発言は、現実的な空間のなかに、フィクションの次元(という言い方が良いかどうかわからないけど、あるイマジナリーな次元)を立ち上げる時に、現実とフィクション(現実とちょっとズレた別の次元)とをどう関係させるのか、という意味でも、とても面白いと思う。
●つぎに、問題がズレていると、疑問に思った点。観客との関係性について。
《ああ、観客との関係性に関しては、そうだな....当たり前のことなんですけど、観客がいるという前提でやる、てことはやってます(笑)。逆に言うと、観客がいないという前提でやらないと、つまり、舞台のなかでフィクションとして閉じないと、そのフィクションが壊れてしまうという言い方は、ただの思い込み以上の何ものでもない。
例えばアゴラ劇場で芝居観たりしてると、たまに外を石焼きイモとか通るんですよ(笑)。すごい張りつめた芝居をやっているときに、「いしやーきいもー」とかくると、僕自身がというよりも、やってる人たちつらいなーとか思うんですけど。でも別に、石焼きイモがこようが何がこようが、それを無視しなくても、いまそこで行われているアクションは関係なく成立するはずなんです。だって現実に僕たちがすごい人間関係の修羅場をいま演じています、みたいな状況にあるときでも、その僕らの家の脇を石焼きイモは通るわけだし、それで和んだりもしないし。そういうことから考えても、本当は関係ないというか、観客はそこにいるし、世界は別にあるし...というようなことを例えばブレヒトが言っているんですが、僕はそれを鵜呑みにしてやってるようなところがあるんですよね。》
ここでぼくが疑問に思うのは、「石焼きイモ」の声と観客の反応とはまったく別のものだという点だ。石焼きイモの声は、舞台の上のパフォーマンスに対するリアクションではないのだから、それをパフォーマンスが取り入れようと、無視しようと、それは割合簡単に操作出来るだろう。でも、対面して座って「それ」を観ている観客の反応は、(意図的な距離の操作や技術なしには)そう簡単には無視したりは出来ないと思う。(外的なノイズに対して閉じている/開かれている、ということと、観客(の反応)に対して、閉じている/開かれていることとは、随分と違うことなのではないだろうか。作品が、観客に対してとりあえず「閉じている」からこそ、観客それぞれによる能動的な介入が可能になるのではないだろうか。)
例えば、喫茶店で二人で向かい合って座っていて、こちらが深刻な話をしている時に、相手がヘラヘラしていたら腹が立つけど、関係ない別の席から笑い声が聞こえたとしても、それは多少うるさいとは感じても、ヘラヘラしている相手のようには腹は立たない。喫茶店の喧噪は無視できても、話している相手が、こちらの話に対して、相づちを打っているか、全く聞いていない素振りをしているか、泣いているか、等に、話し手の話はどうしたった影響される。あるいは、目の前の人物がとっさに腕をあげれば、こちらは無意識のうちに防御の姿勢をとってしまう。(勿論、トレーニングされたパフォーマーはこんなに素朴ではないだろうけど。でも、ぼくが興味があるのは、その時の「トレーニング」って一体どういうことなのだろう、ということなのだが。一種の解離のトレーニングなのだろうか。)人と人とが対面する時、相手の反応というのは、半分はこちらの行動に含まれてしまっているように思う。この点で、あるパフォーマンスが、観客の反応を意図的に断ち切って、抽象的、自律的な次元のなかで行われようとしているのか、それとも、観客の反応もこみで(舞台と客席との一体感みたいなところで)行われようとしているのかでは、大きく異なってくるのではないかと、ぼくには思われる。人において、対空間、対ノイズへの反応と、対人への反応とは、かなり質が異なるのではないだろうか。
(実際にやっている人からみれば、単純に二つの方向にはキッパリとは分けられなくて、中間の微妙なところでバランスをとりつつやっている、ということなのだろうけど。実際には、観客がいないかのようにやっていたとしても、観客がいることは知っているし、見えているのだから、ぼくがこだわっているのは、たんに、その関係(視線、意識)をどう処理するのかという、具体的な技術の問題でしかないのかもしれない。あるいは、観客は俳優と一対一ではなく、ほとんど常に観客は同時に多数いる(対象関係が散っている)、ということである程度解消される問題なのかも知れないし。)
「作品」において、それが「捧げられる」他者(宛先)が、どのような位置にあるのかという点で、演劇(というかパフォーマンス)というのはちょっと特異なところがあるように思えるので、この点をどうしてもこだわってしまうのだけど。岡田氏の作品を見ると、それは観客には捧げられていない、という感じがする。少なくとも、たまたまそこに居合わせた観客ではなく、もっと長いスパンでの、演劇を作って行くプロセスの流れや進展そのものが、何ものかに「捧げられている」感じがあって、それがある種の抽象性、自律性を感じさせるのかもしれない。