『マイ・ボディガード』(トニー・スコット)

●『マイ・ボディガード』(トニー・スコット)をDVDで。最近のトニー・スコットの情報操作的な作風(コマ落とし、時間的なズレや反復の強調、視点の過剰な移動、退色などのノイズ的効果、パノラマ的な風景提示、等々)は、ある独自のグルーブ感や感覚の強烈さを生じさせ、ハッタリ的な緩急の効果を生む一方、ごく普通の意味での描写的な豊かさを困難にし、貧しいものにする。この映画の前半部分、ダゴタ・ファニングが誘拐される前までの部分が面白いのは、この、矛盾する二つの方向が拮抗しているからだと思われる。この映画が、例えば『ドミノ』や『デジャヴ』に比べてずっと面白いのは、主役のデンゼル・ワシントンの友人役であるクリストファー・ウォーケンの厚みのある佇まいをはじめ、脇役たちの多くが魅力的に描かれていることや、デンゼル・ワシントンの孤独な有り様、そして、彼とダゴタ・ファニングとが心を通じ合わせる過程の描写などが、比較的きちんとなされていて、それが、情報操作的な作風と齟齬をきたしているところにこそあると思われる。描写がきちんとしているから良い、というのではなく、基本的に両立しないものが拮抗しているところに生じる「軋轢」が面白いのだ。(情報操作的なモンタージュと描写の豊かさの齟齬が生む「強度」は、例えばゴダールの映画には、ほぼどの瞬間にも存在する。ゴダールは、クールベラウシェンバーグとが同居しているような感じだ。)描写というだけなら、デンゼル・ワシントンダコタ・ファニングをはじめて「認める」プールのシーンの撮り方など、あれではあまりに説得力がないと思うし、二人が心を通じさせる過程が、あまりに簡単過ぎるところがいかにも弱いと思う。ダコタ・ファニングが水泳の特訓をする一連のシーンにしても、彼女は「スタートが遅い」からダメだということになっているのに、特訓の成果としてスタートのタイミングがはやくなったということが、視覚的には効果的に示されていない点など、情報操作的な(時間を恣意的に操作し過ぎる)作風の弱みが出てしまっている。(映画のリズムとしての時間=緩急は操作できても、物語としての「時間の経過(呼吸)」が充分に描けない。情報操作的なモンタージュにおいては、視覚は「過剰な情報を読み取る」機能を追わされるため、通常の意味での、時間-空間内部で物事を把握する目としての機能は失われがちとなるだろう。)とはいえ、母親と三人で車で学校へと向かうシーンで、まるで母親など車内に存在しないかのように、ミラーを通じて二人が互いを意識し合い、鉛筆を貸し借りする描写など素晴らしいと思う。学校からの帰り、ダコタ・ファニングがふいに助手席のドアを開けて外に出てしまい、後部座席へと移動するシーンや、深夜、死に損なったデンゼル・ワシントンからの電話をとるクリストファー・ウォーケンのシーンなどはとても好きだ。(彼のメキシコ人の奥さんの存在とかも、効いていると思った。)こういう描写の冴えや厚みが、(情報操作的モンタージュに傾き過ぎている)『デジャヴ』や『ドミノ』ではあまり感じられない。
一方で、映像や音声を情報操作的にモンタージュする傾向があり、もう一方で、物語の時間を丁寧に描写しようとする傾向があり、その相互の拮抗によって緊張感が生まれているのは、しかし、映画の前半だけで、後半、デンゼル・ワシントンがひたすら復讐のための暴力に突っ走ってゆくようになると、ハッタリ的な派手さは増すものの(確かに「凄い」のだけど、ぼくは引いてしまった)、単調に感じられた。(「ボイス」に迫ってゆく過程での、メキシコのスラムの描写とかは良いと思った。)ただ救いなのは、友人や、捜査官、女性記者、そして父親などの俳優が皆、割合とよいことで、特にクリストファー・ウォーケンは、その佇まいだけで映画をぐっと分厚いものにしていると思う。
(脚本がとてもしっかりしていること、その脚本によって仕組まれた伏線をはるかに超える過剰な情報が映像と音声として盛り込まれていることを、それ自体として「凄い」と言えないこともないし、カーチェイスや爆発などをCGを用いずにやっていることによる一定の迫力もあるのだけど、その凄さが、ただひたすらこのような暴力描写にのみ費やされていることに、いい加減げんなりさせられるのだ。この映画の暴力描写は、幼稚で無責任な快感原則に身を任せて観たとしても、「気持ちよく」ない。この、嫌な暴力描写のゴリ押しのなかにこそ、トニー・スコット固有の何かしらのリアリティがあるのかもしれないけど。)
この映画のラストには、何とも言えない苦い印象をもった。ハッピーエンドとは言えないものの、自分の仕事をやりとげて、一定の満足のなかで(青空と山に見守られ)死んでゆくデンゼル・ワシントンに対して、生き残ったのはいいけど、今後の地獄を生きていかなくてはならないダゴタ・ファニングの悲痛な表情との強烈なコントラストは、この監督は何てえげつないんだ、と思わずにはいられない。スピルバーグの『宇宙戦争』のダコタ・ファニングは、この映画の彼女を、おそらくそのまま引用したのだろうと思った。