『僕を殺した女』(北川歩実)

●『僕を殺した女』(北川歩実)を読んだ。頭の良い中学生が書いたような小説。面白いんだけど、面白くない。ロジックは、複雑に、緊密に、張り巡らされているけど、それを支える文章や細部が、驚く程にチャチで薄っぺらなのだ。「人間が描けていない」とかいうこと以前の問題で、世界はこんなに薄くないだろう、という感じ。「いくらなんでも、それはないだろう」と、途中で何度も放棄しようと思ったのだが、それでも最後まで読んだのは、たんに「謎」に引っ張られたということもあるけど、それだけではない。(でも、「謎」によって引っ張るような小説は基本的に「良くない」ものだとは、改めて感じた。)主人公の男性が、ある日目覚めたら見ず知らずの女性になっていて、しかも5年後にタイムスリップしていた、という突飛な状況が最初に示されて、その設定自体が「謎」として機能し、最後には一応、SF的なものではなく、常識的な範囲で辻褄が合うように説明されるのだけど、その辻褄合わせそのものは、まったく下らないし、どうでもいいものでしかない。
主人公は、いきなり、まったく信じられないような状況に置かれて混乱しつつ、その不条理さを受け入れるために、なぜそんなことになってしまったのかについて、自分自身を納得させるような説明を、なんとかつけようと努力する。まったく右も左もわからない状況のなかで行動して、少しずつ情報を収集し、その少ない情報によって様々な辻褄合わせを考える。しかし、一応辻褄が合うように思えた仮説も、すぐに新たな情報(状況)によって覆される。このような過程が繰り返されることを通じて主人公は、自分は、自分が自分だと信じている自分とは、実は別の人物だったのではないかと疑い、そして、ついにそれを信じさせられてしまう。(これは『ルネサンス 経験の条件』に出て来る「グラッソ物語」のようだ。ただしその過程がグラッソの内面の側から描かれている。だから読者も、その外側へは出られない。)主体にとって、自分自身の内的な持続性(連続性)ですら自明のものではなく、記憶と、外的な現実世界(知覚や情報、あるいは時間と空間の秩序)との(辻褄の合う)対応関係が成り立っていることをその都度参照して確かめることによってしか、それは成り立たない。(「私」とは、多分に論理的な構成物なのだ。)その対応関係にちょっとした齟齬が生まれると、すぐに自分自身の存在する位置(自分自身の統覚への信頼)は危うくなる。この小説に最後まで読むだけの価値があるとしたら、そのような事柄を、たんに主体への懐疑だとか世界への違和感という程度のことではなく、ついに自分を他人だと信じ込んでしまう(しかもそれは狂気によってではなく、あくまでロジックの積み重ねによって)、というところまで追いつめて描いているところにあるだろう。つまりそれは、読者自身もまた、そのように信じ込まされてしまうような不安定な場に置かれる。ということだ。(論理的な正しさでさえ、外的な現実との対応関係が成り立たなければ保証されない。)
ただし、この小説では、そこであらわれる外的現実の手触りが、あまりにチャチで薄っぺらなため、こんな現実しか与えられていないのなら、そりゃあ簡単に「主体」だって裏返ってしまうよなあ、としか思えないのだ。つまり読者は、本当の意味で混乱するような、危険なところまでは連れて行かれない。