『Dolls』(北野武)をDVDで

●『Dolls』(北野武)をDVDで。ツタヤで半額レンタルをやっていたから借りてみたものの、観ないまま返すことになるかも、と思っていたのだけど、眠れなかったので観た。
予想以上に良くなかった。最初の方の、西島秀俊の結婚式のあたりなど、ワイドショーの再現ドラマかと思った。回想が全部説明でしかない、というか、この映画全体の九割が説明と辻褄合わせで終わっているように思う。不必要なところで変に技巧的だったりもする。さすがに、まったく冴えたところがないというわけではなく、「おおっ」と思う描写が少しだけあるのだけど、そのことがかえって「行き詰まっている感」を強くする。やりたいこともないし、やっていることに対する確信もないまま、ただ、今までやってきた「やり方」と手癖だけを頼りに作っている感じ。ミエミエに分かるところを、くどくど説明しなければ気が済まないのは、おそらく、やっていることによほど自信がないというか、手応えがないからなのだと思う。
おそらく、監督にとっての「女性(との関係)への幻想」のあり様の根本みたいなのが割と無防備に出ていて、そういう意味では、正直な映画だなあ、とは思った。(正直だったら良いというものじゃないけど。)
考えてみればこの映画は、他者=女性に対する過剰な期待(三十年前の彼女がずっと公園で待っていてくれる、アイドルが追っかけの自分の顔と名前を憶えていてくれる、別れた女性が自分を忘れられないで自殺を計るほどに思っていてくれる)と、他者=女性に対する自分勝手な感情(年老いたヤクザが死を意識した時、ずっと忘れていた三十年前の約束を都合良くふと思い出す、事故にあったアイドルの醜い顔を見たくなくて美しい時のイメージを目に焼き付けて自ら失明する、自分の行いが原因で記憶を失った女性を自分の責任として背負い込もうと勝手に決める)とが、どこまでもすれ違うという映画なのだが、これは双方の関係としてではなく、あくまで男性の側からの都合の良い幻想として組み立てられている。だから、本当は明らかにすれ違っている(松原智恵子はただ自分自身のために土曜日の公園へ出掛けるのであって、その行為はもはや三十年前の三橋達也とは関係なくなっているのだし、引退した深田恭子のもとには会いに来るファンは他にいくらでもいるはずだし、菅野美穂が、自分を一度裏切った西島秀俊と一緒にいることを望むかどうかは本当は分からない)にも関わらず、なんとなく、互いに触れ合うことが出来ているかのような雰囲気で映画は進行してゆく。それを期待しているのは常に男性の側でしかないだろう。(三橋達也は、自らの死の不安を和らげるために公園で待ち続ける松原智恵子=思い出を必要とするのだし、追っかけの青年は、アイドルをほんの一時でも独り占めするために、深田恭子の事故を必要とするのだし、西島秀俊は、自分の罪悪感を解消するために、菅野美穂が一度記憶を無くし、関係がリセットされることを必要とする。)しかしそのような期待は、この映画の出来が寒々しいものであるという事実によって、決して満足されない。(そのことが逆説的に、この映画の一定のリアリティを支えているのかも。というか、この寒々しいスカスカ感こそが、もともとあらゆる北野映画のリアリティの源なのかもしれない。)