芸大美術館で「金刀比羅宮 書院の美」

●今日も夏。陽射しは、昨日よりも今日の方が夏っぽい。目黒区美術館のすぐ近くのプールは、まるで夏休み中のようなにぎわい。こういう日に美術館をまわるのは間違っている気もする。
●芸大美術館で「金刀比羅宮 書院の美」。最終日のせいか、強い陽射しのなか四十分待ちとかで、どうしようか迷った。芸大は芸祭の最中ですごい人で、こっちを見て帰ろうかとも思った。でも観てよかった。
円山応挙はつまらないという人もいるけど、普通に良いと思った。地味だし、普通なのだけど、良い。若冲は、過剰だし、派手だし、ぎちぎちに描き込んでいるし、歪んでいて変だから、誰が観たって面白いと分るのだけど、応挙はやわらかくて、ゆったりしていて、「空間のなかに描く」ということがよく分っているという感じ。線がきれいだとか、形がきれいだとか、鶴の羽根の黒い部分や竹の葉の描写が、ぎちぎちに描き込んでいるわけじゃないけど上手いというのもあるけど、なにより、スケール感が正確だというか、空間を捉え方る時の懐が深いという感じがする。空間をとても大きく捉えながら、(物を描くことによって)空間全体をダイナミックに、しかしゆったりと動かしてゆく。応挙の絵では、絵画のなかの空間が、その画面の前にある実際の三次元空間を含み込みつつも、それに依存しているわけではない、という感じがある。(その感じが、部屋の空間をそのまま再現しているような展示によって分る。)「画面内の空間」に「実際の空間」が含み込まれるように描く、その時に頭のなかで構想し得る空間的イメージ(スケール感)が、応挙の場合、大きくて、ゆったりしていて、そして正確であるように感じられる。そのように描かれているからこそ、絵画が空間に依存するのではなく、逆に、描かれたものによって、部屋の空間全体が動くのだと思う。複製の展示で、オリジナルではないのが残念なのだが、「瀑布古松図」など、それが置かれている空間全体をぎゅっと掴んで、ぐぐっと動かすような力があるように思われた。(まあ、一つ一つの事物の描写は、上品ではあるけど、あまり迫力はないとは言えると思うけど。「遊虎図」の虎の描写が、応挙の上品さと限界とを、共に示していると言えるかもしれない。こごでもむしろ、個々の虎の描写の迫力よりも、空間全体を動かすための配置の方が優先されている感じだ。)
絵画は、建築のように、実際に物理的な空間をつくるわけではないから、目の動きを促し、それに伴う身体の動き(あるいは、身体の動きを準備する潜在的な動きのイメージ)を喚起させるように描くことで、「空間的感覚(空間的イメージ)」を動かしてゆくわけだけど(つまり、目に見えるものを描くことで、目に見えないものを動かしてゆくわけだけど)、応挙は、その空間的イメージ(見えないもの)をとても正確に掴み、保持しつつ描く(そこに介入する)ことが出来る人なのではないかと思った。それによって、(物理的、建築的な空間と緊密に関係しつつも)物理的な空間に依存しない絵画空間が生まれる。