ドゥルーズは精神分析を批判するけど

ドゥルーズ精神分析を批判するけど、ラカンから多大な影響を受けていることは明らかで(特に『意味の論理学』)、例えば「器官なき身体」というのは要するに、決してファルスによっては完全に統合されてしまうことのない、欲動の循環する部分対象(現実界としての部分対象)のことであると言ってしまうことも出来る。(『意味の論理学』でドゥルーズは、「ファルス(あるいは父)」という言葉を使わないために、それをわざわざ「高いところにあるもの」と言い換えている。抑うつ的な自我は、「高いところにあるもの」と同一化する時に「良い対象」となり、「部分対象」と同一化する時に「悪い対象」となる、そして、「超自我(良い対象)」は、自分と同一化する自我を愛し、「部分欲動(これは端的に「性的なもの」だろう)」と同一化する自我を憎む、と。)しかし、ドゥルーズ精神分析に付け加えた独創は、深層(部分対象)を二つに分けたことだろう。通常、欲動の循環する部分対象とは性感帯のことであり、それは穴とそのまわりに配置される。つまり主体とは、外部にあるものを選択的に透過させる膜の寄せ集めであり、部分対象とは、外部にあるものを自身の内部に取り入れ、または排出する器官だとされる。外部にあるものを受け入れ、あるいは内部にあるものを排出することは、器官(あるいは主体)にとって、快感(必要)であると同時に苦痛(危険)であり、欲動はそこで発火し、循環する。だから通常それは、口唇-肛門であり、性器であり、目であり耳である。しかしドゥルーズはそれに加えて、それ自体で「全体」であるような部分対象、口唇-肛門という食べることと排便することに関わる固体的な欲動ではなく、尿道(尿)に関わるような、液体的(液体は常に「一」であり全体であり、それ自体で充実している)な欲動をたてる。この「尿道的(液体的)」という感覚が、とてもドゥルーズっぽい。器官なき身体とは、もともとはこの液体的な欲動のことを表すもので、それは実は決してアルトー的なものではない。
《対立するのは、二つの深層であり、二つの混合である。対立する二つの深層とは、断片が旋回し爆発する穴のあいた深層と、充実した深層であり、対立する二つの混合とは、固く、固体で、変化する断片の混合と、液体で、流動し、完全で、部分も変化もない混合----溶解し接着する特性があるからである(血のかたまりのなかにすべての骨がある)----である。この意味において、尿道のテーマを肛門のテーマと同じレヴェルに置くことはできないように思われる。なぜならば、糞便が、或るときは毒のある物質として恐れられ、或るときは他の断片をさらに細分化する武器として用いられて、つねに器官と断片とに属しているとすれば、尿はそれに反して、あらゆる断片を結合し、器官がなくなった身体の、充実した深層のなかに細かく砕かれたものを浮かべることのできる濡れた原理を立証するからである。》『意味の論理学』(第27のセリー「口唇性について」)