リンチと坂本+高谷

●清澄のシュウゴアーツで小林正人「ライトペインティング」、初台のICCで、坂本龍一+高谷史郎「LIFE-fluid,invisible,inaudible....」(内覧会)。
●リンチの映画を観るということは、結局はリンチという人の特異性を感じるということだろうと思う。おそらくリンチは、自身の記憶と病理にしか興味がない。そして、そのような作品を観るということは、リンチの病理に同調したり共感したりするというよりも、その病の深さと強さ受けとめ、それを驚嘆するということだろう。世界には、晴れた日のきもちのよい陽射しもあれば、湿気の多い曇りの日のじめじめした空気もあり、強い雨や風が吹き荒れる日もある。あるいは、この世界には、林檎があり、オリーブの木があり、地面が隆起して出来た丘がある。あるいは暴力がありセックスがり戦争がある。それらと同様に、リンチという人が実在し、リンチという病が存在する。じめじめした曇りの日の湿気を身体で受けとめるように、通りがかりでいきなり殴られた痛みと怒りを身体で受け止めるように、リンチの作品の感触を受け止める。それを楽しみ、それにうんざりし、それに苛立ち、それに傷つけられる。つまり、それに魅了される。リンチはたんに好き勝手にやっているだけであり、それにつき合わねばならない義理など誰にもない。しかし、リンチという人が実在し、リンチという病がこの世界に実在することは間違いがなく(つまり、リンチが存在するという根拠が「この世界」の現実のなかにあることは間違いがなく)、つまりリンチのリアリズムは、リンチという人(病)の実在によって裏打ちされている。というかむしろ、リンチの作品の強さや深さによって、人はリンチという病の実在性を納得せざるを得なくなる。(とはいえ、リンチの病は、リンチが職業的な映画作家として成功出来る程度には、一般的なものでもあろう。我々は、リンチの映画を面白く観ることが出来る程度には、リンチと病を共有してはいる。)
しかしリンチの作品は、自身の記憶-外傷に閉じているわけではない。リンチの登場人物ほど、状況や他者のことが気になる人物はなかなかいない。あまりに気にし過ぎるために、あらゆる何ということもない事柄が徴候化し、身体は常に緊張を強いられ、その結果として外的状況や他者との関係(繋がり)が失調して、行動が不能になり、頭のなかにあるものが外の世界へと流れ出して、世界が幻想化する。それはおそらく、自身の幻想への自閉とはまったく逆のことがらだ。幻想を幻想として閉ざしておく(留め置く)ことのできる「くつろげる場(フレームの安定を保証するもの)」がないからこそ、幻想がそのまま外へと流れ出し、世界と不可分に絡み合った幻想それ自体が、気を許せない、油断のならない、ギスギスしたものとなる。我々が普段「現実」と思っているものは、我々が思い込んでいる行動可能性の範囲や疎密さによってあらかじめ大雑把にカットされた情報をもとに、前もって信じられている因果律に沿って構成される。現実の「粗雑さ」に疑問をもたず平然とそれに従える者のみが現実主義者であり得る。しかし、あまりに世界の表情を繊細に拾い、そこに何かしらの意味や意図を見出そうとし過ぎると、頭の内側と外側とが反転してしまう。(世界の繊細な表情を、それそのものとして受けとめ、「意味」と分離したまま留め置くにも(つまり「美を美として享楽する」ためにも)また、「くつろげる場(フレームの安定への信頼)」が不可欠であろう。)だから、暴力への過剰な恐怖が、結果として世界を暴力で満たすこととなってしまう。
●坂本+高谷のインスタレーションは、そのようなリンチの作品とはまったく逆の有り様をしているように思えた。リンチの作品が、「頭のなかのもの(幻想)」が外の世界に流れ出てしまうのに対し、坂本+高谷の作品は、頭の外側にある現実的な状況が、まるで自分の頭の内部にあるもの(自らの幻想)のように思えてくる。それによって人を緊張から解き放ち、人を閉じたカプセルの内部(安定したフレームの内部)のような場所に誘い込む。それはまったりとくつろげる場所である。そこで人が観ているものは、坂本+高谷によって作られた装置のあり様であるというより、それを観ているそれぞれの人物にとっての「見たいもの」であろう。外部から完全に遮断された暗闇にしつらえられた美しい装置と音響は、頭の内側と外側との境界を溶解させ、その区別を曖昧にする。
天井から吊られた水槽のなかに人工的に発生させた霧をスクリーンにして、上方から映像が投射されている。不安定に広がる霧、あるいは、水の波紋に映し出された映像もまた、不安定にゆらめく。観客はそれを見上げる。そしてその映像とそのゆらめきが、もう一つのスクリーンである床面に反映する。
それは、自然の気象状況を箱庭化したような装置だろう。ランダムに変化する映像は、まるで大気の不安定な夏の夕方、空にかかった薄い雲を通して稲光りがしているような感じがする。床に移るもう一つの映像は、池のさざ波に光りが射して、ゆらゆらとゆれているかのようだ。夏の夕方、公園にある池のほとりに座って水面を眺めている。薄曇りの空から射す光は、雲の流れによって様々に変化し、水面のきらめきも、その光りを反映して多様に変化する。時折遠くの雷による稲光りもある。休日の公園は、近くから、または遠くから、人々の声、楽器を練習する音、木々の葉の擦れる音、鳥や虫の鳴き声、などがいくつも重なって聞こえてくる。風向きや、池にいる水鳥によって、水面のさざ波の様子も変化する。そんな感じだ。
だがそれは、周到に外部から切り離された暗闇のなかにしつらえられた装置である。だから、ふいの夕立に襲われる心配もないし、今まで暑かったのに急に涼しくなったりもしない。鳥に糞をかけられる心配もなければ、蜂に刺される心配もない。うっとりと聴いていた葉擦れの音をだいなしにするような、大音響の音楽が聞こえてくることもない。映像も音響もランダムに変化するが、それは一定の幅のなかでのことであり、常に人をうっとりとさせるようなうつくしさを失うことはない。あるいは、人々がそれぞれ勝手にうっとりすることを邪魔する程の「強さ」はない。(時折人を、ふっと我に返らせる程度の「強さ」だ。)そこでゆらめく映像や音響は、人を飽きさせない程度にゆるやかに変化するが、決して人をおどかすような変化はなく、一定のトーンがまもられているため、人はすぐに、その変化の幅を察知し、それ以上の大きな変化はないと知るから、外的環境に対する緊張を解き、知覚への注意を安心して緩めることが出来る。つまり、こころゆくまでうっとりできる。
飽きない程度の、決してあらかじめ予想される範囲を超えることのない映像や音響の変化は、人から緊張を解除させると同時に、それが「外的状況」であることを忘れさせ、観ているそれぞれの人自身の「内部」と一体になるかのようだ。(映像の「内容」は、まるで自分の遠い記憶のようになる。)そこで人は動きを止め、床に座ったり、あるいは寝転んだりする。そこで人は、自分の外側にしつらえられた装置を見聞きしつつ、自分の内部へと入り込んで行くだろう。既に装置は外的なものではなくなり、空間化した「私の内面」となる。そこで人は、ゆらめくうつくしい映像と音響にうっとりしているのか、それとも「うっとりしている私」にうっとりしているのか、区別がつかなくなる。(この作品が人をうっとりさせるのは、「作者」のナルシシズムがきわめて強く抑制されているということにもよるだろう。)
ただ、この作品の要素で唯一、装置が「外的なもの」であることを意識させるものが、自分以外の他の観客の姿だろう。(以前にICCで観た高谷作品もまた、それを観ている観客をも作品の要素の一部とするようなものだった。)会場の隅の方から展示全体を見渡す時、九個設置されているスクリーンの下で、それぞれの姿勢で作品を観ている観客の体に、スクリーンからの光りがあたって、それが明滅しているのが見える。ある者は寝そべってうっとりと自分の世界に入っているし、別の者は数人でかたまって下世話な業界話などをしながらスクリーンの間を移動している。暗闇のなかなので、明るい場所よりは他者が他者であるという感じは減退してはいるが、やはりそこには自分以外の人間がいるのだとは意識される。(うっとりと見入っている人のちかくにまでずかずかと行くのはためらわれる。)人が、このうつくしい装置のなかに(あるいは、自分自身のなかに)没入し切ってしまうのを辛うじて押しとどめるものは、作品を観ている自分以外の観客の存在によるだろう。
この作品が、素晴らしく面白いものだったり、素晴らしく新しいものだったりはしない。ただ、とてもうつくしいものであることは確かだ。この装置のなかでうっとりするという体験は、決して悪くはないものだ。(幼稚な「癒し系」の作品とは、質が違うとは思う。)