サンプル『カロリーの消費』

三鷹市芸術文化センターでサンプル『カロリーの消費』(作・演出-松井周)。この芝居については原稿を書くことになっているので、簡単なメモだけ。冒頭のシーンの、とにかく人を嫌な気持ちにさせるテンションが半端ではなかった。カントを読まない人でも知っている有名な格律「理性的存在者は、自己自身と他のすべての者を、たんに手段としてだけでなく、同時に目的としてもあつかえ」というのがあるけど、ここでは全ての登場人物が、他人をたんに手段としてしかあつかわない。(ある人物はそのことを自覚しており、また別の人物はまったく無自覚にそうなのだった。)そのような人たちが関係するときに生じる、何とも嫌な感じが、非常に精密な演技と劇作によって浮かび上がる。絶妙に人の気持ちを逆なでする感触。観客はどの人物も好きにはなれないが、どの人物も自分とまったく無関係とはいえないことを、常に感じつづけざるを得ない。
冒頭のテンションがずっとつづくわけではなく、お話としての面白さにひっぱられたり、いたたまれない空気が「笑い」によって救われたりはするが、しかし一貫して、観客が「勝手に気持ち良くなる」ことだけは絶対に許さない、という意思は持続し、緩むことはない。作家の、登場人物に対する視線は常に冷静であり、ことさら人間の醜い部分をえぐり出そうとするわけではないが、登場人物に対して決して「気を許す」ことがない。(観客もまた、登場人物の誰にも気を許せない。そこに美や愛をみいだして、共感したり安心したりすることが許されない。)登場人物は皆、どこかで見たような「現代における類型的な形象」しか与えられていない。(作家の、登場人物に対する距離感は絶妙で、人物に対し気を許さずに冷徹であることに徹しながら、決してバカにしたり軽くみたりしているわけではない。この点で、作家は、登場人物を薄っぺらな類型に貶めながらも、たんに手段としてのみあつかっているのではないと言える。)
しかしおそらく作家は、これみよがしに「これだ現代だ」ということを提示しようとしているわけではない。あらゆることがらは「カロリーの消費」でしかない、というニヒリズムが示されているのでもないと思う。徹底して、他人を手段としてしかあつかわない人間たちとその関係を、誤摩化すことなく精緻に追いつめていったときに、「それ以外のなにか」がそこに生じることがあり得るのか、あり得るとしたら、それは一体どういうものなのか、ということを、作家は見ようとしているのだと感じた。
(とはいえ、物語を発動させるきっかけとしてある、誘拐する介護士と誘拐される年老いた女性との関係には、たんに「手段」以上のものがある。そうでなければわざわざ誘拐などしない。介護士の村田という人物だけには、観客が「魅力」を感じる余地(謎という「厚み」)が生まれてしまっている。そもそもそういうものが埋め込まれていなければ、物語は発動しないのかもしれない。)