『エヴァンゲリヲン新劇場版 序』

●『エヴァンゲリヲン新劇場版 序』を新宿ミラノ1で。本当は『サッドヴァケイション』を観に行ったのだけど、「立ち見」ということなのでまた今度にして、同じところでやっている『デス・プルーフ』にしようかとも思ったのだが、こちらも「ほぼ満席」とのことで、評判の映画とはいえタランティーノをわざわざ混んだところで観たいとは思えず、歌舞伎町まで歩いて『エヴァ』を観ることにした。信号を渡って歌舞伎町に入ると、温度も湿度もぐっと増して、かなりムシムシする。夜の街に出るのは久しぶりで、人ごみを物珍しく眺める。
●『エヴァ』はなんとも中途半端な感じ。確かに、アニメーションとしての質はすごく高いのだろうと思う。(特に作画のレベルで。しかし3Dの必然性には疑問がある。)だから決して退屈はしないのだが、面白いわけでもない。冒頭の電話をかけているシーンで、「ああ、シンジ君の声を久しぶりに聞くなあ」とちょっと感動した。しかしその後は、結局半端なダイジェストを見せられているようで、だんだんテンションが下がってきた。これだと、シンジ君の「いじいじ」に説得力がない。(いじいじしていると思ったら、リリスを見せられるとすぐやる気になってしまったりする。)この作品は基本的に、観客がシンジ君の「いじいじ」にシンクロ出来ないと、作品としての力が駆動しないと思う。レイのミステリアスな感じも、全然出ていないように思う。ただ、エヴァの得体の知れないい不気味さは、大画面でこれだけの質で見せられると、やはり迫力がある。それと、ミサトさんのエロさが増していたのは、良かった。(何というか、オリジナルから任意の場面を取り出して、任意に組み立てなおしたヴァリエーションの一つ、のようにしかみえない。)
●この映画を観てつくづく思ったのは、同じ作品を「つくり直す」というのは、根本的に不可能なんじゃないだろうか、ということだ。作品をつくる時、例えその細部までが完璧に構想されていたとしても、作品はやはりつくってゆく時間のなかで出来上がってゆくものだろう。それをつくっている時の状況や、製作途中の様々なアクシデントなども作品のなかに含まれてゆくはずだ。つまり、つくりつつある時には、先が完璧に見えているわけではない(不確定に開かれている)。例えば、碇シンジというキャラクターが、いかに事前に厳密に設定されていたとしても、それは(先がまだ確定していない)製作の時間のなかで、徐々に形作られ、その固有性を有してゆくはずなのだ。つまり、作品が出来つつあるのと同時に、キャラクターも出来つつある、はずなのだ。しかし、作品が一旦出来上がってしまうと、とりあえずゴールの地点が既に見えてしまっているし、キャラクターは、ある程度確定してしまっている。一度確定してしまったものを、再度動かしてゆくためには、よほど強い何ものかによって一度バラしてみなければ、どうしようもないのではないだろうか。
作品をつくるには、それをつくるための段取りが必要だろう。事後的にみれば(たんに「完成度」としてみれば)、無駄な回り道をしてしまったようにみえても、その回り道があるからこそ、「この作品」がほかならぬこの作品として成り立ったのだ、ということがある。(人はたんに「あらすじ(論理)」に説得されるわけではない。)そしてそれは、つくる側だけの問題ではなく、それを受け取る側でも同じだろう。どこに行き着くかわからないものとして、作品をつくることと、どこに行き着くかわからないものとして、少しずつ作品を受け取ること。ある作品は、ある時期、ある状況のなかで段取りを踏んで受け取られたからこそ、その人にとっての「固有性」が生まれる。その段取りのなかでこそ、その作品に固有の何かが経験され、受け取られる。(例えば、はじめはシンジ君のことを「何だこいつは」と違和感を持ってみていたのに、いつの間にかシンクロしていた、とか。しかし一度シンクロしてしまえば、それ以前の違和感をもう一度再現することは出来ない。)しかし、一旦完結してしまって、既にその作品全体を見渡せる場に立ってしまうと、それを新たに「未知のもの」としてつくりなおすのは困難になってしまう。シンジ君は既にシンジ君であり、それは作家の側にも観客の側にも既に一旦共有されてしまっている。それをもう一度改めて語りおなす時、それはどの程度前と同じで、どの程度違うのだろうか。既に知っているシンジ君をどの程度前提にして、あらたに語り直されたシンジ君との差異をどのように計測すればよいのか。前のシンジ君よりもいじいじの度合いの浅いシンジ君を、新たな別の(パラレルワールドの)シンジ君と捉えるのか、それともシンジ君の描き込みが物足りないと捉えるのか、わからないのだ。(全く同じ作品を、二度、三度と繰り返し観る時の方が、かえって自由に「新しい経験」として観られる。あるいは、キャラの同一性をはじめから前提にした二次創作のようなものなら、もっと無責任に、無邪気に観られる。)オリジナルをつくったのとほぼ同じチームが、オリジナルとほぼ同じ設定で、微妙に違う話を語り直す時、何をどこまで前提にしてよくて、どこからが新たなものなのかが、よく分らなくて、何とも中途半端な感じにどうしてもなってしまうのではないだろうか。違い方が微妙過ぎるのだ。(まったく別の物語を、同じキャラクターで語り直すのならば、もう少し分り易かったのではないだろうか。)旧『エヴァ』を観ていた誰もが、まったく初めてみるかのようにシンジ君に接することはもはや不可能なのだから。
作品は、作家が思う通りにつくるものではない。それがつくられた時の外的な状況や、様々な偶然、そしてその作家の「その時の状態」などのすべてが、その作品の内部に組み入れられている。だから、同じ作品を「つくり直す」ことは不可能なのではないだろうか。いや、一人の作家の出来ることなど本当はきわめて限られているから、本質的な作家は結局、同じ作品ばかりを繰り返しつくり直すのだとも言える。しかしその時、「同じことをする」ためには、同じことを、別の作品として、その都度新たにたちあげる必要があるのではないだろうか。例えば、リンチの『インランド・エンパイア』は、『マルホランド・ドライブ』とやっていることはほとんど同じだと言ってもいいかもしれない。しかし、同じことをやるためには、それを「違う作品」として、あらためてやり直す必要があったのだと思う。もし、『エヴァ』というブランドが商売上に必要だったのだとしたら、同じキャラクターを使ってでも、まったく別の話にする(例えば、ミサトさんを主人公にする、とか)必要があったのではないだろうか、と感じた。
●まあ、まだ先があるのだから、これから後は、どんどんと違う世界に入ってゆくのかもしれないのだが。しかしだとしても、この助走の部分は、あまりにかったるいように思う。