中山雄一朗展「トムはジェリーを殺せない」

●四谷アート・ステュディウムのGALLERY OBJECTIVE CORRELATIVEで、中山雄一朗展「トムはジェリーを殺せない」http://correlative.org/exhibition/2007/maestro/nakayama/info.html。例えば、人は顔をどのように捉えるのか。ある人が、ある程度太ったり痩せたり、髪型が変わったりしても、あるいは、歳をとってふけたとしても、その人だと分る。あるいは、右斜め前から撮られた写真しか見ていない人物を、左斜め前から見てもある程度は判別出来る。その時、人は顔を構成する様々なパーツの関係の比率のようなものとして、人の顔を捉えているのだと思われる。印象(特徴)というのは、その比率のあり様のことで、フォルムそのもののことではない。顔の記憶が、写真を撮るように正確な形態として残るとしたら、少し太ったり痩せたりしたら、というか、怒ったり笑ったりするだけで、その人物とは分らなくなってしまうだろう。
構造という言い方をすると、何か大雑把な骨組みのことのように聞こえるが、しかし、ここでの「比率のあり様」というのは、もっと厳密で、細かいニュアンスまで含みつつも、かなり自由な可塑性をも持つものだろう。人は、顔を(大勢の人のなかからでも探し出せる程に)その繊細なニュアンスまで含めて捉え、しかし、そのニュアンスは、(表情の変化などによって)形態が大きく変わっていたとしても、そこに同一性を察知出来るほどのものであろう。(おそらく、フリードの言う一挙性とは、このような時間の外にある構造としての「比率のあり様」のことなのだろう。)
中山雄一朗の作品は、ざっくりとした、構造だけを見せる作品のようにみえる。使われている素材は、細長い木の板と、円柱形にされた粘土、そしてそれらを結びつける縄(加えて一部の作品ではボルトとナット)のみだ。それらの素材の組み立てられ方も、素材を相互に貫入させながら反転させたりぶっちがいにしたりするなど、対位法的なもので、特にそれほど複雑でも目新しくもない。にもかかわらず、その作品は独自のユーモラスで魅力的なキャラクターを成立させている。一見ぶっきらぼうに提示された作品は、その構造を読み込もうとする、しばしば無味乾燥にもなってしまう視線を向ける観者の口元を、知らず知らずのうちに緩め、半笑いのようにさせてしまう力がある。(縄は、独立したパーツをつくるというより、木の板と粘土とを縛ることで繋ぎ合わせ、あるいはそのテンションで作品の形態を維持するために、媒介として使われるのだが、しかしもちろん、その縄の表情も作品のキャラクターを決定づける重要な要素となっている。)だいたい、木の板と円柱にした粘土とを、縄でざっくり結びつけるような作品など、「もの派」の時代に誰かが思いついてやっていてもおかしくはないのだが、少なくともぼくはこのような作品は他に知らないし、その作品の「関係」がつくりだす魅力的なキャラクターは、もの派の作品にはみられないものだ。美的でもなければ、洗練された加工がなされているわけでもない素材が、ぶっきらぼうに提示されているだけなのに、そこには、素材の質感のナマな提示やその異化などということに留まらない(勿論それも「比率のあり様=キャラクター」の一部に含まれるのだが)、同時に、最近流行のヘタウマ調的媚態からも慄然を身を引きはがした、この作家の作品にしかないと思われるような、独自の質が感じられるまでに高められている。(「良い美術作品」とはこういうものだ、という、一種の典型的なお手本のようですらある。)粘土に乾燥のためのヒビ割れが出来ていたとしても、それによって作品としてのキャラクターが損なわれるでもなく、かといってそれが特に(美的)効果をあげているというでもなく、たんに、こういう作品ではそういうこともあり得るだろうなあ、と(アクシデントではあるが想定内のものとして)受け入れられるようなものである。作品とは表層の効果ではなく、ある種の関数なのだということを思い知らさせる。しかしその関数は、具体的な「その物質の手触り」を通してしか成立しない関数なのだ。ぼくも作家の端くれとして、こういう作品を見ると、「へーっ」と関心しつつ、じわじわと嫉妬がわき上がって来るのだった。とても刺激を受けた。