08/01/08

●『脱獄計画』(アドルフォ・ビオイ=カサレス)。これは凄い。冒頭からいきなり、やたらと不穏であり、あらゆることが信用ならない。語り手も、登場人物も、時間の進行も、どれも「確からしさ」を与えてくれない。主人公の書いた手紙を、その宛先である叔父が、部分的に引用しつつリライトしたのが、小説の本文となっている。まず、この書き手である叔父が、主人公であり、事の顛末の報告者である甥のことを信用していない。ことあるごとに、甥の性格的欠陥が叔父により指摘されている。(悪く言ったあとに、わざとらしく「それほどでもない」と取り繕ったりするところが一層あやしい。)つまり、孤島で起きた検証のしようもない出来事の唯一の報告者の信頼性が、常に疑われなければならなくなる。それだけでなく、この書き手の叔父そのものもまた、どうも信用できない。この甥と叔父を含めた一族の間に、どうやらトラブルがあるらしく、この叔父による手記は、そのトラブルに関する自己の責任をなにかと隠蔽しようとしているフシがある。というかそもそも、この手記(小説の本文そのもの)が、はじめからこのトラブルにおける自己の責任を隠蔽する目的で書かれたのかもしれないという感じさえ漂う。だいたい、甥からの断片的な手紙だけが唯一の情報源であるはずなのにもかかわらず、この手記は、見て来たかのように詳細でありすぎるところがあやしい。そして、過度に詳細であるにもかかわらず、ちょっこちょっこと部分的な欠落があることもまた、あやしさを増す。(甥の手紙が直接引用される部分でさえ、その手紙は叔父の手元にしかないわけだから、本当にそれが手紙そのままの引用であるのかという検証は出来ない。)
そもそも、主人公が孤島に「島流し」になった原因が、この一族のトラブルに関することだった。そしてこの主人公には、もともと虚言癖があるかのような記述もある。この主人公は故郷に婚約者を置いてきており、そのためになるたけ問題を起こさずに任務先での使命を終え、出来るだけすみやかに帰還したいと願っている。だが、この婚約者の女性をめぐってはライバルが存在する。主人公の従兄弟であり、主人公に替わって任務地を引き継ぐことになっている男がいて、この男の手紙によれば、その婚約者の女性は、主人公とは別れて、この従兄弟と結婚することになっている。従兄弟は、主人公に自分の口からこの事実を告げるべきかどうか悩んでいる。しかし、この従兄弟の言い分も信用できない。
つまり、叔父にとって(トラブルの秘密を握っている)も、従兄弟にとって(恋敵である)も、主人公は邪魔な存在で、こいつが「消えて」くれれば、ことのつじつまを自分に都合よくどのようにでも合わせるこど出来るのだ。(例えば、ドレフュースと呼ばれる模範囚は、主人公の手紙によれば大変に真面目で信頼出来る男のはずだが、従兄弟の手紙によると、まったく無能で信頼できない人物であるかのように書かれている。どちらの記述が「適当」であるかについては、宙に浮いたままだ。)
このように、この小説は「語り」の次元で、様々な「物語外の思惑」が何重にも重なって信用出来ないことになっている。そして、この孤島で起こっている出来事もまた、非常に不透明で謎に満ちたものである。読者は、きわめて限定的で、断片化された、しかも、相当に偏向され加工されていることが予想される情報によってしか、この物語を知ることが出来ない。(そしてそのことが、物語の内容とも密接に関わっている。)この物語は、ある「謎」を巡るものなのだが、そもそもその「謎」を構成している世界の成り立ちが信用ならないので、読者は「謎」によって誘惑される物語に心地よくのせられることは出来ず、ただただ不穏な感触の細部を、見通しが効かない状態で、できるだけ詳細に読み込んでゆくしかない。
この小説は、物語の次元では、一応ちゃんと「謎」は解かれている。そのような意味で、これは超絶技巧の記述トリックであり、密室殺人でもあるミステリだともいえる。いわゆる、どこにも着地しないような難解な小説ではなく、ただ「筋」として読んでも楽しめるようにはなっている。しかし問題なのは、そのように一応整合性があるかに見える物語の、様々な部分に欠落や矛盾があり、その整合性を成り立たせる基盤(基底)そのものが「信用ならない」というところだ。つまり、読んでいる間じゅう持続する、不穏な感覚が凄いのだ。(このような「信用ならない」状態で読みすすめてゆくからこそ、マッドサイエンティストである総督の「実験」の内容に説得力が生まれるのだ。)
この小説は、出来事にいちいち律儀に日付がつけられている。しかし、この律儀さこそが、実はもっとも信用ならないものだ。この小説では、はじめの方で、近づきつつある戦争への不安が語られている。そして、途中で、主人公の従兄弟から書き手である叔父に宛てて出された手紙の日付が、1913年となっていることが書かれている。つまりこの戦争とは第一次大戦のことだろう。しかし、読み進むと、マッドサイエンティストである総督の口から、ナチスについての言葉が聞かれる。(この「小説」が実際に書かれたのは1945年である。)ここで、小説の時間は二つの対戦の間で宙づりになってしまう。
この小説でもっとも分からないのは、どう読んでも、小説の中頃で主人公が死んでしまうかのように書かれているとしか思えないのだが、にもかかわらず、そのすぐ後に、何事も無かったかの様に、主人公は、いつものように出掛けて行くというところだ。その後、主人公が死んだはずだということは、この小説ではまさに「なかったこと」にされてしまう。そんなことアリなのか、と思って、自分の「読み」の精度が不安になってしまう。最後まで読んだ後に、もう一度戻って、その場面の前後を読み返したのだが、どう読んでも死んでいる。いや、でも、どこか読み落としがあるような気もするし....。つまり、この、語りも、登場人物も、時間も、すべてが信用ならない小説で、最も信用ならないと感じるのが、何よりも「自分の頭」なのだった。本当に自分はこの小説をちゃんと読んだのか、と、細部の読みや記憶に多くの欠落があるのではないか、と、そういうことの不安こそが浮上してくるのだ。最も信用ならないものは、自分と世界との対応関係であり、また、外部からの感覚的入力をある秩序だった世界像へと構成する、自身の「統覚」そのものなのではないか、と、揺らいでくるのだ。そしてこの感覚こそが、この小説が「物語」の次元で問題にしていることでもあると思う。