08/03/15

●もうちょっと『フリータイム』(チェルフィッチュ)。
岡田利規の作品では、語られるエピソード、語られる人物が、それを語り、演じる俳優から切り離されている。誰かの役を誰かが演じるというよりも、あるエピソード、ある人物を、みんなでリレーして、順々に語り、演じている。(『フリータイム』は二人の女性の話であり、二人の男性の登場人物は端役でしかないから、当然のように、男性の俳優も女性として語り、女性を演じる。ここで、ことさら女性的に演じたりはしてなくて、「当然のように」女性として語る、という微妙なところが面白い。というか、女性について語る、というのと、女性として語る、ということの中間あたりで揺れていて、その局面によって、どちらか寄りになる感じ。これは『ゴーストユース』にはなかったことだ。『三月の5日間』にはちらっとあったかも。)
そして、舞台上では、語りや演じることだけが行われているわけでもない。語りの外にいる俳優も舞台の上で何かしら変なことをしているし、語り、演じている俳優も、身体の一部では語っていても、別の一部では別のことをしていたりする。そして、舞台上にいるそれぞれの俳優たちの動きや存在は、関係があるのか、ないのか、よく分からない。というか、ほとんどバラバラに、それぞれで存在しているように見えて、それが時に唐突に、「この人は~で」と指示したり、されたりする関係を持ち、あるいは、ふいにダイアローグを成立させてしまうような関係を持つ。(しかしそれは一時のことで、その関係はいつの間にか解かれ、移行している。)つまり、一見無関係であり、だからこそ関係は常に不確定で、その局面、局面によって流動的に変化する。
舞台上でされていることは、語ること、演じること、動作をすること、会話すること、(あの人が西藤さんです、とか、ファミレスの四人がけのテーブルで、みたいに)何かを何かとして指示(指定)すること、等であるのだが、それらばそれぞれ独立して、バラバラに進行しており、そのバラバラなものが、その都度、交錯し、関係を結び、解き、また別の関係を新たに結び、また解き、ということが、何層もの複雑な仕方で、より合わされているのだと思われる。
だから、ある俳優が何かを語ったり演じたり動作したりしているというよりも、語りの流れが、ある時はこの俳優に宿り、また別の時は別の俳優に宿り、そして舞台の別の場所では、ある行為の流れが、ある俳優に宿り、別の俳優へと移ってゆく、ということなのだと思う。流れを、俳優(の同一性)の単位で観てはいけないのは、ただ語りの次元でだけではなく、あらゆる次元で、様々な要素が(それぞれ孤立して、内発的に動いているはずの)俳優を越えて、まるでいろんな種類の霊が取り憑いたり離れたりするように、各俳優間を漂い、舞台の上を漂い、移ろっている感じなのだ。
そしておそらく、フレームからの自由というのは、まさにこのような状態のことなのだ。
このような、各要素の無関係性、というか関係の流動性、同時複数性が、非常に高度な密度と精度とで組織されているからこそ、舞台全体に、濃厚な「気配」としか言いようのない何かが漂い広がるのだと思う。こういう状態に達することではじめて「30分が永遠だ」ということが言える。それは決してメッセージではなく、ある「経験の状態」を名指すものなのだ。
上野の森美術館で、VOCA展。毎年、VOCA展については、悪口以外のことを思いつくことが出来ないのだが、今年は比較的マシだった。マシだ、という以上のことではないが。しかし、なかで一点、常陸活志という人の、栃ノ木を描いたペインティングには感銘を受けた。絵画というものがどのようにあるべきなのかを教えられ、身が引き締まる思いだった。
●すごく恐い夢を見た。内容はなんてことない。場所は自分の寝ている部屋。ぼくは布団に寝かしつけられ、ピストルをつきつけられていて、耳のすぐ横あたりに何発か発砲される。マジ恐い。勘弁して欲しい。何かを要求されているわけではない。そのピストル男はただ面白がってやっているのだ。ぼくはビビって、助けてくれとか、やめてくれとかさえ言うことが出来ず、声も出ずにただ口を無様にぱくぱくさせている。マジ恐いけど、ただそれだけ。その時見えていた主観的な光景は、実際に寝ている場所から見えるものそのままで、その、赤いジャージ姿のピストル男が立っていた位置には、ぼくが昼間着ていた赤いジャージがひっかけてある。
だから多分その夢を見ている時、ぼくは寝ながら半分目をあけて、実際の部屋の光景を見ていたのだろう。そして、眼に入った派手な赤いジャージが、ピストル男に変換された。
それはともかく、この夢は本当に現実と区別がつかないくらいリアルにクリアーで恐かった。目が覚めて、そこに男がいないと分かって少しほっとしたが、恐怖の余韻は生々しくのこっていて、しばらく荒い息のまま呆然として動けなかった。最近よく、こういう夢を見る。悪夢とはかぎらないが、内容はシンプルで、でも現実以上にクリアーなので、目が覚めてから、それが夢だったのか、それとも前日の実際の記憶なのか、しばらく分からない。寝ぼけていて分からないのではなく、前日の記憶を追ってみて、連続的な流れのなかに位置をもたないことを確認して、はじめてその記憶が「夢だった」と分かる、というくらいだ。
この異様なクリアーさは何なのだろうか。別にヤバい薬とかやっているおぼえはないのだけど。