08/03/24

●昨日の日記に書いた福居伸宏の写真がデジカメで撮られているのかどうかは知らないけど、そこで見られるのはデジタルなテクノロジーの存在によってはじめて可能になったような視覚像だと思われる。(現像液のようなケミカルな液体を通していない、乾いた感触がある。)それは、人間に知覚から切り離されてその外側にあり、我々はテクノロジーによって、その外に触れる衝撃を経験する。
ぼくは、八十年代のゴダールの映画を観て、人の顔の見方がかわった。ゴダールは人の顔をまるで風景のように撮る。しかし、現在のハイヴィジョンカメラなどで、ベタな照明を当てて顔をアップで撮ると、それはおそらく人の顔ではなく、肌を構成している物質が見えるのだと思われる。人は、顔を風景として見ることを受け入れられても、顔を物質として見ることを受け入れられるのだろうか。おそらく人は、そこにさえもあらたな快楽を見出しはするだろう。そしてその快楽は、人間の「外」に触れる快楽でもある。そこにひとつ新たな層が付け加わる。人は、人の顔を、顔(表情、感情、欲望)としても見るし、風景としても見るし、物質としても見る。古い層は決して消えることなく存続しつづけるが、そこに重ねられ新たな層との齟齬は、ますます大きくなるだろう。現代を生きるというのは、この齟齬の落差の大きさの「ショック」のなかを生きるということだろう。
近代という時代が、科学やテクノロジーの発展によって人間の存在が(人間の能力が)拡張してゆくはずだと信じられていた時代だとすれば、近代が終わったということは、果てのない科学的な認識の発展と進歩は、人間をまったく拡張させず、ただ、世界と人間との落差を、つまり、人間と世界との切断こそを、果てしもなく拡大させるのだということに気づいてしまったということだと思う。我々は増々世界の詳細を知るようになるが、しかしそこで知られた世界は、人間には住むことのできない、人間には変えることのできない世界だ。果てしなく広がる世界と、そこから取りこぼされつづける人間。人間は人間の「外」を知り、その驚きを一瞬だけ快楽として感じつつも、自らの位置を再び認識し、その変わらなさを知り、(決して忘れることの出来ない落差によるショックの記憶を留めつつ)諦めとともにそこに留まる。
絵画はきわめて古いメディアだ。それは、人が見たものを、人の手で描く。それはおそらく、何万年も前の、ラスコーやアルタミラで既に完成している。あとは、一旦完成されたものが、その時々に使える道具や技術によって多少のバリエーションを増やしつつも、ひたすら反復されるだけだろう。人間の外の世界を告げるハードなテクノロジーとは違って、それはあくまで人間の位置に留まり、人間による経験を構成することに関わる。だから良いとか、だから悪いとかではなく、だからもう終わったとか、だから今こそ貴重だとかではなく、たんにそうである。そうであることに徹する過激さ、とんでもなさ、底の深さ(底のなさ)というものがあり、そのような人間的な経験の徹底によって人間からはみ出してしまうこともあり得る(本当はここが一番重要かも)。そしてそこには、たんに反復だけではなく、半端ではない分厚い蓄積もある。
何万年も前から、晴れた日があり、曇った日があり、雨の日があり、暖かい日があり、寒い日がある。晴れた暖かい日の日光を浴びる歓びがあり、寒い日の冷たい雨に濡れる辛さがある。(それは、精密化される気象予報のテクノロジーと両立する。というか、気象予報のテクノロジーによって、そのような経験が解消されてしまうことはない。)おそらく人は、そういう経験のなかで生き、そういう経験のなかで狂う。その単調な繰り返しにうんざりするのか、それとも、その反復のとんでもなさに、その都度、新たに驚くことが出来るのか。