08/04/21

●喫茶店で作家論のつづき。(この喫茶店は、建物の二階にあるチェーン店で、タバコは吸わないけど、ぼくはほとんど窓際の喫煙席に座る。書いている対象の作品と妙にリンクしている。)25枚を越えた。ここまではなんとか辿り着けた。でも、この先がさあ大変。ここで一旦仕切り直して、もう一度作品をじっくり読んで、この先の作戦を考えることにする。
それとは別に、『流れよ我が涙、と警官は言った』(フィリップ・K・ディック)を読み終えた。第一部でのジェイスンとキャシイとの会話で、この作品のネタはだいたい割れるのだけど、第二部になって出て来るフェリックスとアリスのバックマン兄妹の登場が、この作品世界のねじれをより一層複雑にする。この世界のねじれがキャシイではなくアリスによるものであること(しかし実はキャシイの存在こそがアリスによる世界の歪みに説得力を与えていること)、そして、表の主人公がジェイスンであるにもかかわらず、この小説全体としては、主人公のジェイスンの世界でもなく、世界を主観的に歪ませたアリスの世界でもなく、フェリックスの世界として収斂されること(まさにタイトルの通りに)。このような複雑な多視点的な構造が、これらの登場人物のすべてを同等な重さの存在にするのと同時に、作品の歪みを解き難いものにしている。そしてさらに、第四部で、それら人間たちの関係-感情によって複雑に絡んだ世界のあり様は、一個の青磁の花瓶という物によって俯瞰的に一気に相対化される。まるで作品全体が一個の花瓶によってみられた夢であるかのように。あるいは、この花瓶が人間たちすべての墓であるかのように。このあたりはちょっと小林秀雄みたいだ。
メアリー・アンは勿論だが、ほんのちょっとしか出てこないモニカ・ブッフという人物がとても印象的だ。おそらく、70年代のアメリカ西海岸とかには、キャシイやモニカみたいな感じの女の子はけっこういたのだろう。あと、主人公のジェイスンが「スイックス」であるという設定が微妙な感じだ。物語だけを考えれば、たんに性的に魅力のある有名人というので充分だと思うのだが、ここでわざわざ、遺伝子操作によって人工的につくられた「特別な存在」でありつつ、今では既にその「特別さ」が殆ど意味をもたず、忘れられている、という感じが、ディックにとって必須だったのだろう(性的に魅力があるという以外に、どういう風に特別なのかよく分からないのだが)。これはむしろ、ジェイスンの特性として必要だったというよりも、ジェイスンの「特別さ」に対するフェリックスの感情の綾(スイックスに対抗するためにセヴンを仮構するというような)として、必要だったのかもしれない。